西郷どん 第30回 「怪人 岩倉具視」 感想




第30回 「怪人 岩倉具視

◎かんそう

演ずるはお笑い芸人の人。なんか「岩倉具視の役を演じよう」とはハナから思ってないみたい。有名で売れてる人なので、監督のほうから「好きにやって下さい」、とか言われたのかも?岩倉卿でググってみたら、「子供のころから公家らしくない言動で知られ直接的な物言いをし、口げんかも得意だった」だそう。


(´A`)<あながち史実と違うわけでもないのか・・・

あとは何といっても歳。1825生まれ、今話で40歳、西郷より3つ上なだけ。

(´A`)<これはかなりキツイ。

(´A`)<いかにもそういうエピソードがありそうな演出だった「やもり」のあだ名のくだりは史実で、「暗躍してそうなヤモリみたいな奴」と言われてたそうな。勉強になった。


(´A`)<ヤモリ・・一生使い道のない知識がひとつふえたぜ・・・


◎今週の「命かけもす」宣言

今週の命かけもすは

(´・ω・`)<ナシよ


○その他小並感

(´・ω・`)<ナシよ


◎おまけパート

 --岩倉地区--//岩倉具視が幼少期を過ごした地
  -岩倉川-

岩倉具視幽棲旧宅
//公武合体に尽力した岩倉は、倒幕急進派から弾劾・追放され、1863-1867年までの間ここに隠れ住んだ//大久保利通中岡慎太郎坂本龍馬など明治維新の志士たちがここに訪問して王政復古に向けた密議を行った//1932年(昭和7)国の史跡に指定//京都府京都市左京区岩倉上蔵町//

○行きたいレベル・D
ググってみたら入場料とる気マンマンのHPでてきて萎えた


◎覚へ書き---1865年・主人公37歳---

○歴史パート:
(´・ω・`)<とくにないです

○ドラマパート:
//西郷、徳川家と天皇家を引き離すために公家(公家→貴族。産まれたときから「エライ」とされる天皇のとりまき)に金を与え離間工作にかかる→公家は自分の立場を危険にしてまで動くつもりナシ(→政治弾圧の対象となり自分たちの立場が危うくなる経緯があったばかり(→安政の大獄1858)なので)//離間工作のやりとりの中「岩倉具視」なる公家の存在を知った西郷、さっそく接触をこころみる(「岩倉具視」は公武合体に尽力した(公武合体天皇家が徳川を粛清するのではなく、天皇家と徳川家を混じり合わせ共同体となる)政治を進めた人物だった。が、のちに尊王勢力(徳川はいらない・天皇だけでいい・という勢力)に追いやられ、政界から追放された状態だった(天皇を徳川と混じり合わせるなんてとんでもない・天皇への冒涜だ・という論理)//西郷、岩倉と接触し腹を割って話すも岩倉は政治の話は上の空、金を要求するばかり//「岩倉具視」の人となり:ゴロツキ相手に博打を主催している・要人たちのプライベートを密かに調査・記録している・生活に困窮して金にうるさい・公家とは名ばかりの貧乏暮らし//西郷と大久保利通岩倉具視主催のヤミ賭場で山口県の有力者・桂小五郎と再会(→桂小五郎をはじめ山口県民は「第27回・禁門の変」で起こしたクーデターで鹿児島県、西郷らに返りうちにされ犯罪者状態となっているので怨んでいる:1864.禁門の変)→西郷「鹿児島と山口県で同盟を組んでクーデターを起こしたい」→桂小五郎「信じられるかボケ!」→大久保「んだコラ!」→双方が抜刀→その様子を隠れ見ていた岩倉具視に静止され水入り//西郷、岩倉具視の家で下働きとして身の回りの世話をし、岩倉具視に取り入ろうとする//西郷、岩倉の家で岩倉の政治に対する構想を知る(日本各地の有力者に呼びかけ、力をあわせ徳川を倒したい。だけど無理だ、誰も自分の話は聞かないだろう・自分は天皇に嫌われ追放されたんだから)西郷、そんな岩倉の背中を押すために岩倉の息子と岩倉を引き合わせる//岩倉の息子→自分らは許された、天皇は自分らを気にかけている・嫌ってはいない)//岩倉、政界復帰の志を取り戻す//つづく



◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

岩倉具視(1825-1883):公家-政治家:岩倉具視幽棲旧居(京都)
//京都の下級公家・堀川某の次男//14歳・公家の宗教学者に「大物になる」と目をかけられ岩倉某家の養子となる//28歳・お習い事で上流階級に気に入られ頭角を現す//34歳・徳川政府が立案し天皇に認可を求めた外交政策日米修好通商条約in1858.)を非難、却下させ政界に存在感を示す(挺臣八十八卿列参事件in1858)。しかし徳川政府が却下された法案を採用し反対派を投獄、処罰という圧政をしく(安政の大獄in1858.)。岩倉は徳川政府と朝廷が合体して行政を行う政治(公武合体)を狙っていたので徳川政府との関係が険悪になるのを避けるため奔走、このときに徳川の有力者たちと親しくなる//35歳・圧政をしいた当事者が襲撃、殺され圧政が収束(→桜田門外の変in1860)//36歳・「徳川政府と朝廷が合体して行政を行う政治(公武合体)を取り入れ権力を固めたい」という徳川側の勢力が「徳川政府のトップと天皇の妹を結婚させ縁戚関係となりたい」と申し出、岩倉がこの婚姻の成立に大いに尽力//38歳・世の中が倒幕(→悪政ばかりの徳川政府を倒して天皇の国をつくろう)という流れになる→「岩倉は悪政ばかりの徳川に皇族様を嫁がせた悪人、徳川政府に知り合いも多い」と非難され最終的には天皇からも徳川寄りと疑われ謹慎・追放・蟄居となる//39歳・政治に影響力をもちはじめた鹿児島県の有力者たちと関わるようになり、ともに政治活動するうちに岩倉も公武合体から倒幕に方針を変更、徳川政府を倒し天皇が政権を握るための運動に尽力//41歳・「山口県を殲滅する」という徳川政府の政策に中止を要請。要請は却下されるが徳川政府が戦争に負け休戦・結局中止となる(第二次長州征伐○山口県vs徳川政府●in1866.山口県)//42歳・岩倉に謹慎を下した天皇が死去→徳川政府が政権を返上、岩倉と親しい鹿児島県が政治的優位になる→岩倉、政界復帰を許される(5年干された)//政権は返上したもののなおも政治工作、抵抗を続ける徳川旧政府。そんな徳川旧政府をつぶそうと工作する鹿児島県。結局鹿児島県が勝利し新しい政府を樹立、一貫して鹿児島県を支持した岩倉は新政府の重役ポストを得る(→王政復古・戊辰戦争・江戸無血開城明治維新in1868.)//46歳・先進国視察・不平等条約改正のため欧米に渡航(欧米使節団in1871.)////49歳・帰国。渡航中に留守番をしていた政府閣僚たちの決定した外交政策征韓論in1873.)に反対→もめる→閣僚を含む公務員600人が抗議辞任(明治6年政変in1873)//50歳・強引な政治改革に怨みをもった高知県の過激派に襲撃される(喰違の変in1874.)//54歳・岩倉の盟友・政府要人大久保利通が石川県の過激派に襲撃され絶命(紀尾井坂の変in1878)//56歳・日本の憲法制定にあたって「伊藤博文のドイツ式君主大権」と「大隈重信のイギリス式議員内閣制」どちらにするかで伊藤博文の推すドイツ流を選択。のちに伊藤博文は岩倉の許可を得て大隈重信を内閣から追放(明治十四年の政変○伊藤博文vs大隈重信●in1881.県)//59歳・咽頭ガンで死去


×周丸(かなまる=岩倉具定・ともさだ1852-1910):岩倉具視の子・官僚:
//明治政府の重鎮・岩倉具視の第三子(次男)※当時岩倉具視は27歳・京都の下級公家だった//16歳・父が主導する反・徳川政府軍(明治新政府)に従軍、各地を転戦(戊辰戦争明治新政府vs徳川旧政府残党●in1868.東北各県)//18歳・アメリカに留学、帰国後は公務員に//30歳・憲法調査で欧州へ行く伊藤博文らに随行//58歳・死去」

(´A`)<16歳で戦争?感謝と敬意しかねえ!と思ったら「総督」として、でした。アホらし。

(´A`)<ググッてみたらなんとか委員・なんとか議員・なんとか大臣とかご立派な役職を転々としてるけど「具体的に何かしたか」の記載は一切ナシ。ぜーんぶ名誉職だったと予想
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