西郷どん 第44回 「士族たちの動乱」 感想


第44回 「士族たちの動乱」

◎かんそう

○お偉いさんは大変
「「政争に敗れた西郷隆盛」っていうカタチでの帰郷だけど金には困ってないし世間体を気にしなければこれからは気楽な生活ができるルンルン♪」

なんて思って田舎に帰ったら、部下たちがワラワラくっついてきた。自分だけの問題じゃなくなってる。

「自分→話をし、行政にある程度納得し託し、鹿児島での生計のめどもたっていたから帰郷。

「部下→話をきかず行政に納得せず、鹿児島での生計もなにもなく、ただ帰郷。帰郷後は「西郷のために鹿児島にきた自分たちを西郷は放っておくのか!」と西郷に迫る。

「仕事をやめて鹿児島にもどった」。という顛末は同じ。だけど、過程も考え方も真逆。「だって西郷がそうしたし!」・みたいな軽率で考えナシな群れる生き物特有の責任感のなさ、ズルさ。しかもそれが600人!(もちろん西郷を慕う一心で高給や地位を蹴った人もいるであろうが。)

(´A`)<いやはやろくでもないね。

(´A`)<「不満は言うが提案も代案もない」このあつかましい有象無象の生き方は現代も同じだよね・・・モチロン(「自分の人生に直結してる、戦争になったら当然参加する!」っていうのが「当然」の当時の不平士族と今の議員・民衆は比べるべくもなかろうが)

(´A`)<「衆人のために偉人が頑張っても衆人に自覚がなければ話は前に進まない。」これは今も全くおんなじだね・・・

(´A`)<でも、それ(給与・就職先・行政に対する不満のガス抜き)をなんとかしちゃう西郷・・・すごいわ。



○悪役
薄暗い部屋、短調のBGM、下から照明、国旗をバックに低いトーンで卑劣な命令を下す大久保卿。

(´A`)<ノリノリだなwww

(´A`)<「日本国旗=国家の威光」をバックに、みたいな演出なんだろうけどまるで悪の組織やねwww

でもなんだろう。なんで大久保さんはあんなふうになっちゃったんだろう。(あんなふう→感情を抑えて本心を言わないスタイル)「西郷に裏切られた、もう誰も信用しない」とかいう出来事があったならわかるけど、そんな出来事なかったよね?前回だってなんだかんだで西郷と話をしてお互い理解した形で別れたように俺は解釈した、

少なくとも「俺はもう誰も信用しない、俺はたった今からキャラ変する!」みたいな味の別れかたじゃなかったと思ったんだけど・・ちがったのん?


◎今週の「命かけもす」宣言

今週の命かけもすは

(´・ω・`)<ナシよ


◎歴史迷子

○西郷の真意
ドラマでは部下が勝手についてきて困って学校設立・っていう流れだったけど実際もそうだったのかしら?実際はドラマと同じに、大久保にある程度の理解を示しての離別だったのか?それとも大久保憎しで、鹿児島を打倒大久保のための拠点として部下に結集をよびかけたのか?

(´A`)<でも部下の暴走を聞いて、「しまった!」と言った、っていう記録があるみたいだからドラマの流れが正解なのかな?

○その他小並感
小①:大久保の本妻と愛人のご対面、ギャグテイストでなごんだ。本妻は可愛いし愛人は美人だしで、つまみ食いのつもりがガッツリいっちゃった大久保卿の気持ちもわからんでもないな。全く必要ないシーンだったけど、今回は全体的に暗い回だったので脚本・監督はあえていれたんだろうなあ。


◎おまけパート

○築地反射炉
//日本で最初に鉄製大砲の鋳造に成功した反射炉反射炉→燃料の熱を壁や天井の面で反射させて炉内の温度を上げ、鉄や銅などの金属を溶かす溶解炉のこと)//佐賀藩製作・江戸時代、長崎警備を務めていた肥前佐賀藩はいち早く西洋の技術を取り入れ鉄製の大砲の製造を成功させるなど日本の近代化をリードした//跡地となる日新小学校の中には、反射炉の模型が建てられている(この反射炉の正確な位置は、長年、「日新小学校付近」といわれていただけで、正確な地点まではわかっていない)

佐賀藩主・鍋島某の別邸として1846.に造られ、「神野のお茶屋」と呼ばれていたものが1923(大正12)佐賀市に寄贈され神野公園として整備される//神野のお茶屋や隔林亭、こども遊園地などの施設がある//

佐賀七賢人・維新十傑の一人・江藤新平の遺徳を偲び神野公園につくられた銅像//江藤の命日の翌日である4月14日には、毎年子孫や関係者が集まって「江藤新平銅像まつり」が開催される//

○佐賀城跡
//佐賀市のシンボルともいえる鍋島36万石の居城の跡//現在、城跡をとりまくお濠一帯は県立佐賀城公園となっている//もともと佐賀を治めていた龍造寺氏の村中城を拡張・整備し1611に完成。平地に築かれた平城で本丸には5層の天守閣があった//たび重なる火災で焼失・再建を繰り返し、佐賀の乱(○明治政府vs佐賀県の元・武士●in1874.佐賀県)によって、一部の建物が破壊、残った建物も年を経る毎に随時解体、今では本丸の門である鯱(しゃち)の門と続櫓(つづきやぐら)と石垣を残すのみとなっている(鯱の門と続櫓は国の重要文化財に指定)その門や扉には「佐賀の乱」の弾痕が残っている

江藤新平乗船の地
1874.佐賀で反乱を起こし政府軍に敗れた江藤新平はここで船に乗り鹿児島に向かい西郷を頼った//江藤某はこの地で過ごしたことがあり地理に通じていたため乗船の地に選んだと考えられる

○本行寺
//江藤新平の墓があるお寺//龍造寺胤家(りゅうぞうじたねいえ・****-****・室町-戦国時代の武将)によって建てられた//1518建立、1610現在地に移転したと伝わる//佐賀県の治水事業に大きな功績を挙げた成富茂安(なりどみしげやす1559-1634)も葬られている//

江藤新平の墓
//佐賀県本行寺にある(最初、江藤の遺体は蓮成寺に葬られ、後に本行寺に改葬された)//「江藤の墓参りをするとあらゆる病が治る」と噂が立ち、参拝客が押し寄せたという//郷土の英雄でもあった江藤を慕う人々は多く、閉口した県は柵を設置して参拝を禁止したが、夜になるとやって来る人もいたという//

○行きたいレベル・B
本来ならAレベルだけど昔、「佐賀県にはなにもない~♪」みたいな歌が流行ってて。「佐賀県=何もない」っていうイメージが俺に植えつけられてしまいそのときから佐賀県にはあんまり行く気しない。

(´A`)<恐るべし「佐賀県:作詞・作曲/はなわ」(一聴の価値アリ!)


◎覚へ書き---1873~1874・主人公45~46歳---

○歴史パート:
×佐賀の乱(○明治政府vs佐賀県の元・武士●in1874.佐賀県
不平士族(←元・武士のこと)による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。
//政府に不満を持つ佐賀県の元・武士で構成された2つの政治集団が、元・政府中枢にいたが政策方針の相違で政権離脱、佐賀県に帰郷していた江藤某を旗頭として武装蜂起(※江藤某は乗り気ではなかったらしい・西郷と同じノリか?)//序盤は優勢だった佐賀県勢、次第に政府に圧され半月ほどで敗走//江藤某はあ鹿児島県まで逃れ西郷隆盛に応援を請うも拒否される//高知県に行き応援を請うも失敗、高知県で逮捕、強引な裁判で死刑を宣告され、斬首、みせしめとして首をさらされた//死亡:政府209人-反乱軍173人//

×私学校(1874-1877.鹿児島県)
//1874年6月に設立された学校//軍事・漢学などを講じた//鹿児島県下に 136の分校をもった//西郷隆盛を旗頭とする政治結社的性格をもつ//鹿児島県知事もこれを支持、県内の区長・戸長・警察幹部などは私学校幹部の占めるところとなった//西南戦争では、私学校派は西郷軍の中心となり、県庁全体が西郷軍の兵站(へいたん)部と化した//

○ドラマパート:
//中央政府の職を辞した西郷、鹿児島県に帰郷し隠居生活を堪能//東京で官職についていた鹿児島出身の元・武士たちが西郷を慕って鹿児島にもどってきてしまう(●明治6年の政変in1873)//「職務放棄とはなにごとか、すぐ東京にもどれ」という西郷、「我々は西郷に政府の仕事を斡旋してもらった、その西郷を政府が裏切った、恩人を裏切った政府で働くことはできない。っていうか我々のことより西郷こそが政府に戻ってほしい//結局、元・侍の軍事従事者600人あまりが鹿児島に戻ってきてしまい鹿児島は政府に不満を持った無職の元武士がひしめく状態に//自分たちは西郷を慕って鹿児島に帰ってきたのだから西郷は我々のためになにかするべきだ(西郷、政府をなんとかしろ!手伝ってやるから我々に何か指示しろ、的な感じ)。西郷困惑//岩倉具視高知県の元・武士に襲撃される//大久保利通率いる新政府の政策への不満が日本各地でつのる//鹿児島の大久保の妻子が嫌がらせをうけ東京の大久保のもとに移る//1874.政府と仲違いした元官僚・江藤某が中心となって佐賀県で反乱が勃発→粛清される→江藤某が西郷を頼って鹿児島までくるも西郷は協力を拒否「自分は政府に弓ひくつもりはない」→結局江藤某は政府に捕まり処刑される(●佐賀の乱(○明治政府vs佐賀県の元・武士●in1874.佐賀県))//反抗した佐賀の元・武士を見せしめを兼ねて政府は処刑するも逆に元・武士達は怒り心頭、暴発寸前//元・武士達の怒りを収めるために西郷は学校を設立・元武士たちに仕事を与え自らも後進の教育に勤める(私学校設立in1874.鹿児島県)//海外留学から帰国した西郷の庶子・菊次郎も西郷のもと私学校で働くことに//西郷たち元・武士の動向を警戒・監視する大久保利通ら//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)
×篠原国幹(しのはら くにもと・1837-1877):武士-軍人:鹿児島県
鹿児島県の武士の子//25歳・鹿児島県の仲間とクーデターを計画するも鹿児島県トップにバレ失敗(寺田屋騒動in1862.京都府)//26歳・鹿児島県とイギリス艦隊との戦争に従軍(→薩英戦争△鹿児島県vsイギリス△in1863.鹿児島県)
//31歳・戊辰戦争に従軍 勇猛な活躍ぶりで世に知られる(戊辰戦争明治新政府vs徳川旧政府残党●in1868.東北各地)
//35歳・西郷隆盛らの下、明治新政府廃藩置県(1871.)の断行に貢献//36歳・政治運営方針の違いから西郷隆盛が政府職を辞任、鹿児島に帰郷すると、ともに鹿児島へ帰る。新政府や軍関係者に大きな衝撃を与えた(明治6年の政変in1873.)//37歳・西郷隆盛の私学校設立に尽力、その監督となり、青年子弟を養成●←イマココ//42歳・西郷隆盛ら鹿児島県の元・武士らが反乱、政府軍を相手に奮戦するも序盤で戦死(西南戦争○明治政府vs鹿児島県の元・武士●in1877.九州各地)
(´A`)<赤いマントをしてたせいでそれが目印になって狙撃されちゃったんだとか。合掌。

×辺見十郎太へんみ じゅうろうた・1849-1877):武士-軍人:鹿児島県
詳細不詳//19歳・戊辰戦争に従軍、活躍。(戊辰戦争明治新政府vs徳川旧政府残党●in1868.東北各地)後に天皇警護軍の大尉となる//24歳・皇居が火事、そのとき妓楼で遊んでいて救援に間に合わず、同僚から糾問され切腹を迫られるが西郷隆盛に助けられ以後改心//24歳・西郷隆盛が政界を離脱、鹿児島に帰郷したのに殉じて辞職、鹿児島に帰郷(明治6年の政変in1873.)//25歳・西郷設立の学校の運営に尽力●←イマココ//29歳・西南戦争で大いに活躍するも政府軍に敗れ西郷の死を見届けたのちに戦死(西南戦争○明治政府vs鹿児島県の元・武士●in1877.九州各地)
※気性が激しく、退却する味方は斬り殺し部下にその生き胆を食べさせ「お前らもこうなるぞ」と戒めたと言われる。


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