西郷どん 第26回 「西郷、京へ」 感想


第26回 「西郷、京へ」

◎かんそう

○幕末の有名人が続々登場。
坂本龍馬役の人、ちょっと肩に力入りすぎ。かっこつけすぎじゃない?サムいし痛々しかった。「ちょっぴりきどって演じてください」みたいな演技指導だったとか?あるいはこの役者さんはキムタク系の人気先行イケメン大根役者で、こういうしゃべりかたの演技しかできない人なのか?


(´A`)<あるいはああいうのが世の中では「いい演技」で、俺が演技を知らない野暮な視聴者なのかもな。まあいい、俺は俺。

(´A`)<ちなみに西郷の弟さん役のジャニーズの子の甘えん坊みたいな話し方はよい。なんか弟っぽい。あれは演技?地?


○お勤めご苦労様でした☆
西郷さんの島流し中の逸話って結構あるけど、喜界島に行ってたシンパチどんこと、村田新八の逸話がたいしてないのは何故?「島の子供に勉強教えた」とかのほかに、なんかあるの?
やっぱり偉人っていうのは一般人とは違い島流し中でも行いが立派だったのか?あるいは「西郷隆盛」が全国区の有名人になった後に盛りに盛った伝承ができあがっていったのか。

○大人対応
西郷:鹿児島のために働いて中央政府を敵にまわし、命からがら逃げ帰った鹿児島で久光公に見捨てられ、絶望の中で坊主と自殺未遂。ついには罪人扱いにさせられ島流しされ久光に怨み(あと、西郷は島津斉彬公は”何者かに”毒殺された、”誰かが殺した”と勘ぐってたかも?おゆら騒動もあったしね)
久光:罪人扱いの西郷を鹿児島県に帰らせてやった
久光:帰ってきた西郷に超失礼なこと言われた(部下たちの前で公然と「田舎モノだのなんだの」とディスられた)

久光:それでも「国のため」と堪え、西郷に仕事をさせた

久光:なのに西郷が職権を逸脱しスタンドプレーした

久光:ムカついたからまた島流しにしてやった

久光:部下(大久保利通)が「西郷は使える」というのでメチャムカつくけど罪を許し国に戻した
久光と西郷、ふたたびご対面。←イマココなわけだが。

ここでお互い仲直りのチャンスだったんだけど、島津久光公のほうは大人対応ができませんでしたな。

俺の人生もこういうこと、よくある。(こちらが大人対応とったのに相手に拒絶されたりとかもしょっちゅう)”お互い”大人対応がとれれば、ちがっただろうに。


(´A`)<それでも上っ面だけ仲良しごっこしようとしても、結局どこかで破綻することになるか・・


ドラマだとお互いの描写が全部わかる(久光公だって歴史の上での働きっぷりは超有能だしドラマでは親思いだし兄思いだしそこまで悪い奴じゃない)けど、現実は相手のことなんて主観でしかわからない。だから誤解や行き違いが憎しみを産む。


(´A`)<俺、すごい嫌いな国があるんだけど、その国なんかとも主観ではなく客観で事実のみを見ればあるいはわかりあえるのかな?なんて思ったりして。

(´A`)<まあ無理か。人対人ですらわかりあえないのに国レベルだとさらにいろんな要素が複雑に絡み合ってくるもんな。


○薄っぺらい笑顔

徳川慶喜公、悪いイメージしかないんだけど、役者さんが好きだし人気あるし、(悪役にはされないだろう)と思って、(実はいい人オチ)っていう方向でキャラの解釈をしようとがんばってるんだけど・・・


(´A`)<「自己中・保身のことしか眼中にないゲスになりさがる(最終回でいい人END)」ってことでFAなのかな?

(´A`)<今回気づいたんだけど、確かにドラマの徳川慶喜公は態度悪いし嫌な奴だけど、嘘はつかなかった・嘘をつけないからああいう態度だったってことじゃない。そんな男が「嘘を使うようになった」って、なんか怖いし、悲しいね。

(´A`)<天下国家じゃなく、もっと小さな集団のトップならあるいはよかったのかもね。

(´A`)<もっと言うと世襲制(親族経営)が間違い。

(´A`)<まあそれを言ったら天皇の意向がそもそもの原因だったわけだし、そのへんのシステムが致命的な問題なんだと俺は思うけど。


◎今週の「命かけもす」宣言

今週の命かけもすは

(´A`)<ない、けれど・・・

(´A`)<徳川慶喜公と談合してるとき、「日本国のため、民のために再会議に出席してください!おいの命にかえて薩摩も参加させもす!」とかなんとかいつもの調子で命かけてなくてよかったね、とは思った


◎おまけパート
東本願寺(+大寝殿
//徳川家ゆかりの寺//1863.京都に来た徳川慶喜(このときはまだ一橋慶喜)が宿舎として3ヶ月ほど使った//
渉成園(しょうせいえん)(+徳川慶喜筆扁額「渉成園」)
//東本願寺の別邸//迎賓館としても利用され、将軍・徳川家茂や多くの要人も訪れた//徳川慶喜も多忙の中でよく足を運んだという//
○若州小浜藩邸跡
//小浜藩福井県)の京都出張所だったが当時空屋敷になっていた//御所に近く通勤に便利だったので徳川慶喜小浜藩の提供をうけ移り住んだ//ここでさまざまな問題が協議され、のちに歴史的な決断がくだされることになった//現在は石碑のみある

○行きたいレベル・D

(´A`)<あんま興味ないカナ


◎覚へ書き---1864年・主人公36歳---

○歴史パート:
・1863.9.30//京都//福島県を中心にした保守右派が山口県(左派)を政界から追放した
//山口県中央政府(国)の政策に干渉、恐喝や公文書偽造などで強引に山口県が意向する政策をとらせようとする//これらの問題行為に天皇が激怒、「山口県を京都から締め出すように」と命令//福島県などが電撃的に京都政界の重要施設を封鎖、山口県勢を京都から追放することに成功

×参預会議(~決裂)
1863末-1864.3.//京都で//天皇が//追放した政治家に代わる有力な政治家数名を呼び出し//今後の政策を決めさせた(が意見がまとまらず2ヶ月で解散)
天皇の下、徳川家と他の県の代表が横並びに意見をだしあって政策を決めるという、鹿児島県などが考える当時の政治の理想のカタチのひとつ。ただし「自分がトップだ、他の県と横並びはおかしい」と徳川家は考え反発、「徳川はいらない、徳川を排除して天皇が全部やるべき、自分たちがそれを支える」という、山口県などの考える理想の政治のカタチもあり、うまく機能しなかった。
//天皇「外国を日本に入れるな。でも戦争は避けろ。あと自分が政治をする気はない、徳川家がやれ。」//鹿児島県「今の日本では外国にかなわない、外国排除は力をつけてからにしたほうがいい、いきなり天皇に政治しろっていうのもまあ無理だろうから政治運営は徳川中心でいい、でも徳川がそれで天皇を見下すようなら鹿児島県がこらしめてやりますよ」//

議題
①「違法行為・汚職で政治を混乱させ治安を乱した山口県の処罰をどうするか」
山口県が養っている山口県サイドの天皇系の政治家の引渡しを要求、山口県が従わなければ山口県と戦争する
②「天皇が外国人を日本に入れるなって言ってる件について」
天皇や田舎者、外交問題になんの責任もないもの以外は「外国人排除は実際問題無理」とわかっていたので「外国人受け入れ」でまとまりかける→メンバーの1人、一橋慶喜が反対(これを承認すると受け入れ反対政策を公表している徳川家の立場がなくなり他のメンバーの立場が大きくなるから・という理由で)→鹿児島県と一橋慶喜が激しい口論となり結論がでず

//議論で熱くなった場をなごませるために飲み会開催、しかしそこでも一橋慶喜が「俺は徳川家の偉い人だ、他のメンバーとは身分が違う」といきまく。怒った他のメンバーは「もうメンバー辞任します」となる。さらに一橋慶喜は徳川政府の重役とも揉め、「もうこの議会解散させたほうがいい」という空気になり、ほとんど機能しないまま瓦解

○ドラマパート:
//流刑地から鹿児島にもどった西郷、県の辞令で京都へ//この時期、鹿児島県民は京都で嫌われていた(中央の政治に干渉するため山口県などの勢力を追い落としたため、恨みをかっていた)//京都で開催された日本の有力者会議(参預会議)が決裂。西郷は会議再開のセッティングのため中央政府代表の徳川慶喜を説得するよう大久保に依頼される//西郷、徳川慶喜の説得に成功するも西郷の上司である鹿児島県のトップが会合を拒否。さらに鹿児島県トップは西郷につらくあたる//鹿児島県トップが鹿児島県に帰る//西郷は鹿児島県の幹部職員として京都に残り働く//部下が暗殺され動揺する徳川慶喜//徳川慶喜、不自然かつ不気味な笑顔で西郷と面会、「おまえを信じている、鹿児島県は大切な味方、仲良くやっていこう」//徳川慶喜の変化にとまどう西郷//つづく


◎おべんきょう
○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

坂本龍馬(1836-1867.):武士:坂本龍馬記念館(高知県)・海援隊跡地(長崎県
 ・江戸の古い社会の仕組みを近代的なものに変えるための足がかりをつくった人
 //高知県の下級武士・坂本某の次男(下級武士だが先祖が商人で暮らしは裕福)//17歳・剣術修行で東京へ留学/同年・外国船が日本に渡来、東京の高知県出張所から防衛作業に召集される(黒船来航.in1853.)/同年・佐久間象山(超頭のいい人)の私塾に入塾//25歳・左派政治団体に入団(→徳川現政府を打倒・外国人排斥を掲げる党)//26歳・手続きなしで東京に行く(当時の高知県の法律に違反、犯罪者となる)/同年・反政府の思想だったが政府の重役(勝海舟)と出会い思想転換、勝海舟の弟子になり海軍開設・運営の仕事につく//29歳・結婚/同年・山口県が徳川中央政府と戦争(池田屋事件禁門の変in1864.)。これに海軍の人間が関わったことなどから海軍が閉鎖。無職となり鹿児島へ→山口県との連携の模索をすることと操船技術を担保に鹿児島県から出資を受け会社を設立(のちの海援隊)//30歳・当事臨戦状態だった山口県と鹿児島県の同盟締結を成功させる(薩長同盟in1866.)/同年・国家反逆罪的な感じで逮捕されそうになり警察と刃傷沙汰、大怪我。湯治と新婚旅行を兼ねて鹿児島県へ(日本初ともいわれる新婚旅行in1866.鹿児島県)/同年、山口県と徳川中央政府軍が戦争。山口県側として参戦、勝利(第二次長州征伐○山口県vs徳川中央政府●in1866.山口県)//31歳・商売の実績を認められ高知県と契約、会社が高知県所属の組織となる(海援隊)/同年・会社の船が和歌山県の船事故・日本初の海難事故裁判を起こし勝訴(いろは丸沈没事件in1867.岡山県)/同年・新政府樹立後の新しい日本の理念の素案を作成(船中八策)/同年・鹿児島県と高知県の同盟締結に尽力(薩土盟約in1867.)/同年・戦争を起こさず政権交代するための段取りに尽力(大政奉還in1867.)/31歳・治安維持組織によって暗殺される(近江屋事件in1867.京都)

勝海舟(1823-1899.):武士(高官)-政治家:赤坂屋敷跡(東京)
//東京の上級武士(でも貧乏)・勝某(チンピラ系豪傑のすごい人)の子//9歳・野良犬にチンコを噛まれ医者に「助からない」とまで言われる大怪我、以降犬が苦手に//16歳・家督を継ぐ。オランダの学問を学び後に塾を開く//29歳・妹が佐久間象山(超頭のいい人)のもとに嫁ぎ義兄弟となる//30歳・外国船が日本に来航(黒船来航in1853.)、このとき政府に提出した対応策の意見書が的確と評価され政府に就職//32歳・政府の職員として海軍士官になるため長崎県で研修//37歳・日本使節団としてアメリカに渡航。(使節団にはジョン万次郎や福澤諭吉も)//40歳・直接日本のトップ(将軍)に談判し海軍所を開設。このころ坂本龍馬(なんか有名な人)と出会い弟子にする//41歳・管轄する海軍がテロに参加(池田屋事件禁門の変in1864.)、その責任として謹慎・海軍は閉鎖//43歳・徳川政府と山口県が戦争、政府役職に復帰(第二次長州征伐:○山口県vs徳川政府軍●in1866.山口県)、戦争終結のための交渉役にされ、よりよい終わり方を模索中、突然上役が強引にその案件を解決してしまい「俺、いらないじゃん」となり自らお役辞任、以降事務方に//46歳・山口県や鹿児島県が徳川政府を倒すための戦争をおこす、「負けを認めるから戦争は勘弁してください、上司(徳川家)の命を助けてください」的な交渉を担当、成立させる(戊辰戦争江戸城無血開城○明治政府vs徳川政府●in1868.東京都)/同年・徳川政府が滅び、新しい政府が発足(明治維新)、新政府の要請で消極的ながらも運営に協力、同時に貶められた旧政府人材・失職・失業した旧政府の人々の生活の工面に尽力、名誉回復に努める//51歳・台湾との戦争に抗議、職を辞任(台湾派兵:○日本vs台湾(中国)●in1874.台湾)//71歳・中国との戦争に反対(日清戦争:○日本vs中国●in1894-1895.中国)//77歳・「コレデオシマイ」と言い残し脳溢血で死去

×西郷小兵衛(1847-1877):武士:
・幕末の長有名人・西郷隆盛の末弟
鹿児島県の下級武士・西郷某の4男//21歳・兄が幹部を務める明治政府軍に参加、徳川旧政府軍と戦い勝利(○明治政府軍vs徳川軍●in1868.日本各地)//30歳・兄・西郷隆盛を旗頭とし鹿児島県が明治政府に対し挙兵、これに鹿児島県軍側として参加、熊本県で戦死

×伊達宗城(だてむねなり・1818-1892.):お殿様(愛媛県)→政治家:
詳細不肖・上級武士・山口某の子//9歳・愛媛県のお殿様・伊達某の養子となる//22歳・隠居した養父の跡を継ぎ、お殿様となる。養父の政策を継承し軍備や経済の発展に努める。また、他県と連携し中央政府の行政にも積極的に干渉、政治改革を訴えた//40歳・次期将軍選びで政敵に敗れ報復を受け隠居・謹慎となる(安政の大獄in1858.)が、のちに政界復帰し国政に関与しつづける//48歳・イギリス大使らと積極的に交流・意見交換//49歳・明治新政府樹立、閣僚となる//50歳・明治新政府が徳川旧政府勢力と戦争。これに抗議し役職を辞任(戊辰戦争○明治政府vs徳川勢力●in1868.日本各地))//51歳・ご立派な役職について鉄道普及に尽力//53歳・中国と対等な関係を築く条約の締結に尽力(日清修好条規in1871.)ー同年・中央政界を引退//74歳・病死

孝明天皇(1831-1867):天皇(121代目):京都
天皇の4男//15歳・天皇が死去、次の天皇となる//21歳・第2子誕生(のちの明治天皇)//22歳・外国が日本に対して外交の締結を要求(ペリー来航1853神奈川県)//天皇の許可を得ず徳川政府がアメリカと外交条約を結ぶ(日米修好通商条約in1858.)→怒った天皇が徳川政府の実質トップを暗殺するよう命令(戊午の密勅in1858.)→この動きが徳川政府にバレる→天皇に手を出すとアホな民衆を敵にまわすので、徳川政府は「天皇に手をかす人間・組織」を処罰・弾圧(安政の大獄.in1858)//29歳・政治工作のため妹を徳川家に嫁がせる//32歳・山口県が「天皇のため・国のため」を掲げ好き勝手に政治介入することにキレて福島県などに命令し山口県を京都から追放する(八月十八日の政変:○福島県などvs山口県●in1863.京都))←■■イマココ■■//36歳・病死(天然痘


×平岡円四郎(1822-1864):武士(家老):
詳細不肖。上級武士・岡本某の子。のちに上級武士・平岡某の養子となる//25歳・若いころから聡明で偉い人に認められ推薦されて徳川慶喜の部下になる//36歳・上司を日本のトップにするための政治工作に奔走するも政敵に敗れる(将軍継嗣問題in1858.)ー同年・政敵からの報復で上司ともども左遷される(安政の大獄in1858)//37歳・山梨県にとばされる//40歳・上司が復権、平岡も東京にもどる//42歳・上司の側近として重役に抜擢される-同年、外国人排斥を訴える茨城県の武士に暗殺される

ふき(=お芳(およし))
//徳川慶喜の妾//江戸の街火消・新門某の娘//1868.徳川慶喜とともに大阪城を脱出、東京へ// 明治維新以降に暇を与えられ、徳川慶喜とはそれっきり//
(´A`)<つまり実在だが出身は東京・親は火消、鹿児島県とも西郷とも接点はナシ・戦後は解雇されて徳川慶喜とはそれきり・詳細不詳・ということですな



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