西郷どん 第27回 「禁門の変」 感想


第27回 「禁門の変

◎かんそう

○今回はみごたえあった!!
合戦シーンがここ数年で一番よかった。(合戦シーン=おんな城主 直虎×・真田丸×・花燃ゆ×・軍師官兵衛○・八重の桜○って印象だから3年ぶりによかったって印象)


○ただ来島又兵衛はよくなかった
演ずるはプロレスラーのおじいちゃん?話題性を重視したんだろうけどあれはヒドイ。セリフもほぼないし大丈夫だとふんだんだろうけど、あんまりにも動きがニブイ。(演じてたおじいさんは66歳、実際の来島又兵衛は48歳だったらしい)


(´A`)<花燃ゆはヒドイ作品だったが来島又兵衛のでてたあたりの流れ、来島又兵衛の役者さんはけっこうよかったな。


島津久光の真意
西郷が任命された「軍賦役兼諸藩応接係」っていうのはなかなかの大役らしい。で、ドラマでは「西郷に失敗させるため大役に着任させた」っていう感じだったけど、本当は西郷をかってた、距離はあってもわかりあってた、とかいうノリのストーリーのドラマがあっても面白いかも。


(´A`)<でも実際そうとう仲悪かったらしいしそれこそ綺麗ごとだけのご都合展開になっちゃうか・・・でもなんかこのドラマの島津久光公、憎めないんだよなあ。


○実際はどうだったんだろう
「命の保障はする、武器を捨ててほしい」山口県の兵に投降を呼びかける西郷ですが。でも山口県の兵隊はみんなもうヤケクソで死ぬ覚悟だったんじゃないの?死ぬつもりの集団に「命の保障」なんて、無駄じゃんね。


(´A`)<まあ実際どういう流れだったのか知らんが

(´A`)<あとは乱入ですべてをブチ壊した福島県勢。たしか「八重の桜」では鹿児島県勢がぶち壊す展開だったし、やっぱり鹿児島は福島に、福島は鹿児島に悪者になってほしいんだろうなあ。ただ、自分が悪者になりたくない言い逃れならまだマシで、本気で「あいつらのせいだ、自分は悪くない」みたいなことも世の中多いからおっかないよいよね

○まさか水戸ってオチとは・・
襲撃の犯人、一橋慶喜の部下だったのね。そりゃショックだろう。(史実ではその場で犯人がわかってた・犯人は一橋慶喜に自分達の政治方針を受け入れさせるための脅しとしてはじめから一橋慶喜の側近を狙った・だそうで)

○お妾さん
「俺は信用できないのか?」という一橋慶喜公の問いに、「イエス・ノー」では答えず、「あなたには惚れています」と返すお妾さん。こういう返しかたっていいよね。とっさに使えるようになりたいわ。
あと、一橋慶喜公の背後でハサミを握り意味深な表情をするシーン。あれは「鹿児島県に家族を人質にとられ一橋慶喜公暗殺を命令されている」展開とみた。


(´A`)<で、一橋慶喜公がそれを知って完全に闇堕ちする、と。



◎今週の「命かけもす」宣言

今週の命かけもすは・・

(´A`)<ナシよ


○その他小並感
なんか急に西郷が政治家っぽくなってきた。どうせなら島津斉彬公の下で政治活動してるときもこういう感じにしてほしかったとおもいましたまる


◎おまけパート

○蛤御門(はまぐりごもん):1864.禁門の変の時の激戦地。現在でも門柱に命中した弾痕を確認することができる。
//現在の京都御苑(皇室関連施設の周囲にある公園)の外郭九門の一つ。本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」//御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられたとされる。(いずれの火災だったかは諸説あるが禁門の変の火災のことではない)//現在の蛤御門は1877から1883にかけて行われた整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど東の位置に、南を向いて建てられていた。

天龍寺塔頭・弘源寺(てんりゅうじたっちゅう・こうげんじ)
塔頭→寺の中にある寺・みたいな?//禁門の変(1864.)で、長州藩山口県)が本陣を構えた場所//天龍寺は焼き討ちにされたが、天龍寺塔頭・弘源寺は焼失をまぬがれた//本堂の柱に残された刀傷は、血気にはやる長州兵が闘いを前に試し切りあいたものと伝えられている//

○行きたいレベル・A
日本人として、蛤御門は行っておきたい。京都ならあと一回くらい行けそうだし。(寺は興味ナシ)


◎覚へ書き---1864年・主人公36歳---

○歴史パート:
池田屋事件(in1864.7.8.京都府
1864.7.8.//京都//「池田屋」という旅館//京都の治安維持組織・新撰組が//テロを計画していた山口県などの過激派を捉えるため(あらかじめメンバーの1人を逮捕・拷問し証言をとり)現場に乗り込む→双方が抜刀、殺し合いの惨事に//

禁門の変(きんもんのへん・in1864.8.20.京都)
1864.8.20//京都//池田屋事件などの抗議のため山口県の軍隊が押し入りこれを迎え撃った徳川政府軍(福島県や鹿児島県)と軍事衝突//山口県の惨敗//

○ドラマパート:
//山口県の武士・桂小五郎が西郷と接触(政界では「鹿児島県の西郷」といえば有名な存在なので)//山口県は鹿児島県との政争に破れ(●→八月十八日の政変中央政府から敵視されている状態)。なので桂小五郎は「一橋慶喜中央政府代表)にあえる場をもうけてほしい・一部の山口県民はテロを画策しているがそれは山口県の総意ではないと説明したい・誤解をときたい」//西郷、会談をセッティング。長州の言い分に一橋慶喜が理解を示す。安堵する桂と西郷//前回(第26回「西郷、京へ」)での一橋慶喜の部下が暗殺された事件の犯人は「鹿児島県の中村半次郎(第3回「子どもは国の宝」で西郷に助けられた子))か、山口県の武士では」、という噂が広まる。この汚名をはらそうと中村半次郎は真犯人を探す//西郷、中村半次郎と再会、一橋慶喜暗殺未遂の犯人は中村ではないことを確認//テロを画策していた山口県の武士が粛清、斬殺される(●→池田屋事件)これに憤慨した山口県が挙兵。中央政府が「各県は山口県を迎撃するために挙兵するよう」と伝達//山口県による鹿児島県への嫌がらせに辟易していた鹿児島県民の武士はこの挙兵を歓迎するも西郷は「私怨は捨てるべき・戦争は避けるべき」との考えから一橋慶喜に進言、「山口県を信じてほしい」//一橋慶喜部下暗殺事件の主犯が水戸と判明(・つまり一橋慶喜の身内が一橋慶喜暗殺をもくろんだ)。身内に裏切られ疑心暗鬼に陥る一橋慶喜は一旦は理解を示した山口県の言い分も却下、再び山口県は国の敵、という方針を選択//なんとか穏便に済ませたかった西郷だったが、天皇からの勅命が下ったことで(せめて山口県を滅ぼすのではなく、あくまで防衛というスタンスをとろう)という形で出兵を決断//開戦(●→禁門の変)・鹿児島県側が山口県側の将兵を討った時点で西郷が説得「これ以上無駄な殺し合いはやめよう」、山口県の兵隊が投降の様相をみせたところに福島県の兵隊が乱入し山口県の兵を討伐、戦線が混乱、西郷は脚に銃弾をうける//京都の街が戦争による火災で大惨事に//つづく


◎おべんきょう
○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)
桂小五郎(=木戸孝允・1833-1877.):武士・政治家:木戸神社(山口県
山口県の医者・和田某の長男//7歳・山口県の武士・桂某の養子となり立ち位置も武士となる→十代・「こいつは大物になる」的な武勇伝が今も残る//16歳・山口県の有名な思想家・吉田松陰の作った塾で学び、その才能を称賛される//13歳・剣術道場に入門・実力を認められ19歳で剣術修行のため東京留学、一年でトップになりそこから5年間トップとして道場に在籍(つまり剣術は高段位)//kjh
1854.ペリー2度目の来航。実物を見物する(ペリー来航1853神奈川県)→山口県に海外留学を希望(却下)→東京で出きる限りの海外の技術や知識の吸収に努める//29歳・山口県政に口を挟めるほどの存在となり、「日本は外国と仲良くするべき・政権運営をしてる徳川は政権を天皇に渡すべき」という方針で山口県をまとめる//30歳・山口県の外国排斥思想の集団が外国船を襲撃。(下関事件○英米仏蘭vs山口県●in1863.山口県)・←桂小五郎は「今は無理・力をつけてから」という立ち位置だった//30歳・外国船を襲撃したせいで外国はもちろん、徳川政府からも「山口県は危険な集団」と認識され政治の中心地・京都から追放される(8月18日政変○徳川軍(鹿児島県・福島県など)vs山口県●in1863.京都府)//31歳・「徳川政府による京都追放処分は不当だ・武力で抗議しよう」と計画した山口県の過激派がそれを阻止・強制連行しようとした公安と揉めて刃傷沙汰・←桂小五郎は計画には反対だったがその場に居合わせ逃げ延びた(池田屋事件in1864.京都府)←■■イマココ■■→池田屋事件に逆ギレした山口県民が抗議のため軍隊を京都に送るも返りうちにあう(禁門の変○徳川政府(鹿児島県や福島県)vs山口県●in1864.京都府)→世の中を騒乱に陥れた罪を償わせるため徳川政府が軍を山口県に派兵、山口県は降伏・謝罪・責任者処分、これにより山口県は「今後徳川には逆らわない」という立ち位置となる←桂小五郎も「反徳川の政治犯」という立ち位置(第一次長州征伐○徳川政府vs山口県●in1864.山口県)//32歳・「今後は徳川に従う」という山口県の方針に反対する反徳川の一部山口県民がクーデターを起こし政権を奪う←これにより桂小五郎も反徳川政権となった山口県政府に迎え入れられる(功山寺挙兵○革新vs保守●in1865.山口県)//33歳・1863.1864.の戦争で徳川軍の主力となり山口県を政界から追放した鹿児島県と同盟を組む(薩長同盟in1866.)//33歳・徳川政府が再び軍隊を山口県に送るもこれを撃退(第二次長州征伐○山口県v徳川政府●in1866.山口県)//35歳・山口県の総意として有志各県と協力し、徳川政府を政界から追放。天皇を行政の中心に据える新政府を発足させることに成功(→王政復古・戊辰戦争・江戸無血開城明治維新in1868.)新政府樹立以降数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける(新政府の基本理念の宣言(→五箇条の御誓文)・マスコミの発達推進・封建的風習の廃止・土地所有権の公平性の確立(→版籍奉還廃藩置県)、人民の平等、人材の能力優先主義、、憲法制定と権利独占を抑制する制度の確立(→三権分立・二院制)・教育の充実・法治主義の確立・などを提言し明治政府に実施させる。軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など極めて現代的かつ開明的な建言も行う※本当ならすごいけど本当かな?どうなんだろ。)//40歳・政府使節として海出張、視察。見聞を広げ帰国//42歳・帰国後、原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し公務執行が困難に//同40歳・政府内の「武力による韓国や台湾への政治干渉」に一貫して反対、台湾への派兵が決まるとこれに抗議し職を辞す//42歳・政府に要請されるカタチで政界復帰//43歳・地元山口県で反政府戦争勃発(萩の乱○明治政府vs山口県の反政府勢力●in1876.山口県)//44歳・西郷隆盛を旗頭に鹿児島県で勃発した、反政府クーデター鎮圧の指揮に志願するも持病が悪化、現場に到着することなく病死(歯痛、腹痛、胸痛、ストレスからくる飲酒による肝臓肥大とも)

(´A`)<死の間際、意識朦朧状態の中、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したんだそうな

(´A`)<桂は柔道もできて、酒の席で暴れた鹿児島県の政治家を取り押さえて毛布でくるんだうえ紐で縛り、そのまま自宅へ送り返したことがあるんだとか。それ以来、その政治家は「桂が来た」と聞くと大人しくなったんだと。イカスなあ!

×枡屋喜右衛門(=古高俊太郎・ふるたか しゅんたろう1829-1864):武士:
!(´A`)<新撰組に捕まって拷問された人デス
滋賀県の役所関係の人・古高某の子(母は公家貴族)//16歳・親の引越し・転職で京都に//18歳・父親が死去、父の勤務していた寺で働く//33歳・経緯不詳・商家を継ぐ(←突然やな!)。「外国人排斥・政治は徳川ではなく天皇が直接するべき」という思想から同じ思想の山口県の政治活動を支援//34歳・山口県が外国船を襲撃。そのせいで外国はもちろん、徳川政府からも「山口県は危険な集団」と認識され政治の中心地・京都から追放される(8月18日政変○徳川軍(鹿児島県・福島県など)vs山口県●in1863.京都府)//35歳・反政府としての活動がバレて京都の私警察に捕まり拷問、「テロ計画」を自白(強要自白で誇張された可能性もアリ)、のちに投獄。この自白を根拠に私警察が山口県の反政府活動家の集会を襲撃、殺し合いになるin1864.京都府)←■■イマココ■■→//36歳・徳川政府と山口県が京都で戦争(禁門の変○徳川政府連合軍vs山口県●in1864.京都府)で京都に火災が広がり、脱走を警戒した役人に斬首される//

×川路利良(かわじとしよし1834-1879):武士・官僚・軍人・警察官:弥生慰霊堂(特別功労者として祀られている・東京都)・警察博物館(川路コーナーなるものがあるらしい)
※日本の近代警察制度を構築した「日本警察の父」
鹿児島県の低級武士・川路某の長男//30歳・京都に侵攻してきた山口県と戦争、相手軍の総督を狙撃し倒す大手柄(禁門の変○徳川政府連合軍vs山口県●in1864.京都府)←■■イマココ■■//34歳・鹿児島県らが新政府樹立のために徳川政府と戦争、鹿児島軍幹部として出征//37歳・西郷隆盛に招かれ東京の役人となる//38歳・国に派遣され渡欧、欧州各国の警察を視察、帰国後フランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立//39歳・政府内抗争で内部分裂、多くの鹿児島県出身者が職を辞し鹿児島に帰るも川路は東京に残る→「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」とのこと//40歳・警視庁創設・警視総監に就任//日本各地で政府に対する不満が高まると敵対集団にスパイを送り動向を探ったり離間工作を図ったりする(喰違の変in1874.東京都・佐賀の乱in1874.佐賀県)//43歳・故郷鹿児島で反政府の軍が蜂起、政府軍に加わり西郷隆盛率いる鹿児島軍と戦い勝利(西南戦争(○明治政府vs鹿児島県●in1877.鹿児島県)//44歳・政府運営の実質トップで川路の味方だった大久保利通が襲撃、斬殺される。川路は事前に「石川県民が大久保襲撃を計画」という情報を得ていたが「石川県民には無理だろう」とタカをくくり情報を無視するという痛恨の読み違いをした//45歳・再び欧州の警察を視察するも病床に臥し帰国。帰国6日後に死去(汚職発覚捜査を怖れた某による毒殺説もアリ)
※警察の人や客観的な歴史感を持つ人には偉人として尊敬され、地元鹿児島県では「鹿児島の英雄・西郷隆盛を死に追いやった人物」として大久保利通とともに嫌われているらしい(俺は嫌いだな・・・)

×来島又兵衛(1817-1864):武士:靖国神社護国神社(東京都・祀られ)
山口県の下位武士の次男//19歳・高位武士・来島某の婿養子になる//29歳・東京で剣術修行留学//41歳・家督を継ぎ山口県のお役人職を歴任//46歳・山口県の外国排斥思想の集団が外国船を襲撃(下関事件○英米仏蘭vs山口県●in山口県)→山口県が外国船を襲撃したせいで外国はもちろん徳川政府からも「山口県マジありえない」と認識され、政治の中心地・京都から追放される(8月18日政変○徳川軍(鹿児島県・福島県など)vs山口県●in1863.京都府)→京都を追放され山口県に帰ったのち軍隊(→遊撃隊)を新設する//47歳・政敵、鹿児島県のトップを殺そうとするも失敗/同年・「自分たちが正しいと認めろ」と訴え、山口県が軍隊を京都に送る。来島はその最先鋒として暴力での解決を計るも戦死(狙撃で胸を撃ちぬかれ助からないと悟った又兵衛は、甥にを命じ、自ら喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した

○松平保容(まつだいら かたもり1836-1893):大名(福島県のお殿様):鶴ヶ城福島県
岐阜のお殿様・松平某の6男(側室の子)//10歳・叔父で福島県のお殿様・松平某の養子になる//16歳・養父が死去・家督を継ぎ福島県のお殿様になる。以降、中央政府の要請により東京や北海道の警備したり地元で地震あってそのケアをしたり政務をこなす//24歳・徳川政府の事務方トップが和歌山県の謀略で暗殺される(→桜田門外の変in1860.東京)。和歌山県に報復しようとする徳川中央政府をなだめ(和歌山県も徳川の親戚なので憎しみあうのはよくない・とのことで)問題解決に尽力//28歳・徳川政府から「京都の警備任務(=金がかかる上に徳川の犬となり汚れ仕事をする係)」に任命される。何回も固辞するが徳川政府に押し切られ着任。警護をソツなくこなすと同時に反徳川のテロ集団にも間口を開き「言いたい事は大いに言って欲しい」という大人対応をとる//27歳・反政府の山口県が公文書を偽造し全県あげて徳川政権を武力制圧しようとするもこれを見抜き阻止。山口県は政治の中枢、京都府の出入り禁止となる(八月十八日政変○徳川側の県勢(福島や鹿児島)vs山口県●in1863.京都府)//28歳・大いに体調を崩し中央政府での仕事について辞職を願いでるも徳川政府はこれをまったく聞かず却下(なんたるブラック!)//同年・山口県の一部過激派が「京都を放火・松平保容暗殺・天皇強奪」を画策、松平容保配下の警備隊がこれを未然に阻止(池田屋事件in1864.京都府)。このとき多数の死者がでたことに山口県が抗議、京都に軍隊を差し向ける→松平容保は政府側としてこれを迎撃、撃退(禁門の変○徳川中央政府配下vs山口県●in1864.京都府)//同年、山口県のテロ行為(禁門の変)を断罪するため徳川政府は山口県に軍を派兵させる。松平容保は徳川将軍にここでビシっと決めるようにうながすも徳川は「自分が行って反逆者をこらしめる」ではなく「部下に委任」ですまし、部下も甘めの処罰で済ます(第一次長州征伐:○徳川政府軍vs山口県●in1864-1865.山口県)//30歳・再び山口県が徳川政府に反抗的態度。松平容保は「これを押さえ込めば現在世間の評価が著しく低い徳川政府の威信回復になる」として挙兵に積極的に介入、しかし徳川政府も下請けの現場も消極的対応、結果各地で敗戦→さらに鹿児島県が寝返り山口県の肩をもったことで徳川政府はますます弱気に→「我々福島県も軍を派遣します、弱みをみせずオール徳川で天下泰平をプロデュースしましょう」と提言するも却下される→このタイミングで徳川将軍が病死→結局、徳川政府は山口県に派兵するも抵抗され負けてしまい停戦を申し込んだ」というなんとも情けない結果となる(第二次長州征伐○山口県vs徳川政府軍●in1866.山口県)//31歳・松平容保を寵愛していた天皇が死去。「亡き天皇は自分を信頼し話を聞いてくれたが徳川政府は天皇の命令に従わず犯罪者の山口県に毅然とした態度をとるべきとの自分の意見も聞かず状況の相談も報告もせずそのくせ金のかかる京都警備は押し付ける。地元、福島県で災害が起こり自分も健康状態が悪化している」という旨、京都警備の職を辞任し地元にもどる手続きを申請する→これも却下される→さらに「死んだ天皇の意思」という縛りで政府への協力を命令される//同年・戦犯国である山口県の今後の扱いや外交問題について話し合う場で鹿児島県と徳川がモメる(四侯会議in1867.京都)これを境に鹿児島県は山口県とともに「徳川政府はダメだ、滅ぼそう」という方向に舵をきり徳川政府はビクビクする日々を送る→徳川政府のトップが鹿児島山口の武力行使から逃れるため「政治の運営権を天皇に渡す」と宣言→徳川に権力が無くなる(大政奉還in1867.)//政権を手放した徳川政府に代わり鹿児島県らが新政権を樹立。今まで徳川政府や福島県松平容保に押さえつけられてきた山口県復権させ、「徳川政府と松平容保福島県)は天皇をたぶらかした悪人なので断罪すべし」という方向で政治工作し挙兵。松平容保は徳川政府側についてこれに対抗するもgdgdで惨敗(戊辰戦争○明治政府vs徳川旧政府●in1868.日本各地)、徳川政府軍のトップが早々に降参、「悪いのは全部福島県松平容保」という流れになり新政府軍が福島県へ。福島県は和解案を提出するも受け入れられずフルボッコ、結局戦争になって福島県が惨敗、全面降伏。松平容保は死刑は勘弁してもらえ東京に送還された(それまで散々重税で苦しめられた挙句戦争になり大迷惑をこうむったため福島県民は見送りもほとんどなかった。→という話と、慕われていて、松平容保の連行に領民は驚愕し、悲しみと失望に暮れ、容保を救うべく多くの嘆願書が出された・という話がある。両極端ですな。)(会津戦争○明治政府vs福島県●in1868.福島県)//32歳・長男誕生(戦争直後、しかも軟禁中なのにヤルことはヤルのね・・・)。のち和歌山、青森県と預けられ最終的に東京へ//36歳・謹慎処分が解除//44歳・超ご立派な神社の管理人に(日光東照宮・栃木)//57歳・肺炎で死去