風林火山 第34回 「真田の本懐」 感想


第34回 「真田の本懐」 

◎かんそう

○総合力
武田軍に領地を取られた武将・小笠原某。同じく敵を武田とする武将・村上某に頼るがその村上某も「まずは自分の地盤を固めないと」ということで武田との戦争から一時離脱。そんな村上某に「あんたが地盤固めてもワシが負けたら意味ないよ?」と小笠原某がいう。すると村上某が返す。

「この戦いはあんたの負けだよ。前の戦争では、大勢の部下が敵に説得され敵のほうについたせいで負けた。今度の戦争でも、今だその部下たちは戻ってはこない。これは刀で斬り合うとか以前の問題だよ。あんたはそういうところですでに負けていたんだよ。」

みたいなことを言うのですが、なるほどな・って思った。

「そうなん?ワシ、部下や市民に嫌われててん?」みたいな小笠原某のセリフもよかった。

(´A`)<俺らみたいな庶民でもこういうところで戦況にかかわっているのかもと思うとなんか誇らしい

(´A`)<調略嫌いの村上義清も「調略」の意味がわかった・といったところか・・・


◎おまけパート

---グンマー.藤岡市---
//関東に君臨していた武将・上杉憲政が統治していた//かつては上野(こうずけ)と呼ばれていた

○平井城址(●復元土塁)
//上杉憲政の本城//だそうで

箕輪城跡{●本丸跡}{長野業政木造(長純寺蔵)}
//弱体化していく上杉憲政を支え続けた猛将・長野業政の城//1561.長野業政が死去//1566.9.武田軍の猛攻により落城//だそうで

---グンマー高崎市---

榛名神社(はるなじんじゃ){●矢立杉}
武田信玄が矢を立て戦勝祈願をしたと伝わる杉の木がある{●矢立杉}//だそうで

○行きたいレベル・A
そんなに遠くないし神社は是非行きたい!


◎覚へ書き

○歴史パート:
1551.武田信玄配下・真田幸隆が調略により砥石城を攻略。
//真田幸隆村上義清によって奪われた領地は武田信玄のものとなり、武田信玄はその領地を真田幸隆に与えた

○ドラマパート:
上杉謙信に軟禁されていた勘助が武田領に帰還、敵勢力(小笠原某+村上某)との戦いのため長野県にきている武田本隊と合流//勘助、武田信玄重臣たちに上杉謙信のひととなりを報告し、「勝てる」と結論づける//勘助、前回大敗をきっし敵からも味方からも危うい立場になっている真田某を訪問、新たな作戦を提案。真田某がこれをとりまとめる「作戦→お家復興を条件に敵の城の責任者を寝返らせる」//真田某、密使を送るも返事はなく密使も帰ってこない。心配した真田某の妻が嫡男を連れて城へむかう(密使の行き先が実兄だったため)//真田某の妻、敵の城で真田某の実弟(敵)と対面、寝返りを説得。「もともと裏切ったのは真田」と真田弟は激昂、これにたいし「自 分らが死ぬから味方になってくれ」という真田妻///真田妻が敵陣に行ったのと行き違いで密使が戻る・「調略は成功」、つまり真田妻は勇み足//真田某、妻を救うため直接敵城に乗り込み話をつける「→すでにこの城の上役は武田の条件に納得し武田についた、あんたも味方になってほしい、悪いようにはしない」//真田幸隆、敵だった実弟の説得に成功、無事帰還、妻を叱ったあとハグ。(泣ける)//これら真田某の工作により砥石城落城(真田軍が砥石を攻める、城内部の人間が目立った抵抗をせず降伏)//真田某、一連の働きにより武田信玄から領地を与えられ砥石城城代に//真田領となった土地に誰の者とも知れぬ墓(→戦死した矢澤某(ヘイゾーの義父)の墓)、そこで勘助が摩利支天の飾りを拾い(それはもともと 勘助のものだったがいろいろあってヘイゾーがもっていたものだったので)ヘイゾーの安否を気遣う//つづく



◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

×真田昌輝(1543-1575):武将(武田信玄-勝頼):信濃国.真田郷(長野県)と推測されるが在城などは不明
=徳次郎
山梨県の大名・武田信玄の家臣・真田某の次男//****.武田信玄の小姓となり目をかけられる//****.侍大将という役職を与えられ、兄・真田信綱とともに出陣する事が多かったが、単独でも出陣、戦功を挙げた//26歳・駿河攻め・兄とともに先鋒を担う32歳・駿河攻め・先鋒を務める(第一次駿河侵攻:○武田信玄vs今川氏真●in1568.静岡県)//27歳・三増峠の戦い・殿を務め戦功をあげる(三増峠の戦い:○武田信玄vs北条氏照北条氏邦●in1569.神奈川県//31歳・武田信玄が死去、以後武田勝頼に仕える//33歳・長篠の戦い・奮闘むなしく戦死(長篠の戦い○織田・徳川連合vs武田勝頼●in1575.愛知県)

真田昌幸(1547-1611):大名(長野県)武将(君主とっかえひっかえなので詳細は後述):信濃国.上田城城主(長野県)
//山梨県の大名・武田信玄の家臣・真田某の3男//7歳・人質として武田家の本拠・山梨県におくられ武田信玄の奥近衆となる//****.武田信玄の母方の親戚の養子となり「武藤喜兵衛」と改名・足軽大将となる//18歳頃・結婚//15歳・第四次川中島の戦い・初陣(△武田信玄vs上杉謙信△in1564.長野県県)//23歳・三益峠の戦い・に参戦。(三増峠の戦い:○武田信玄vs北条氏照北条氏邦●in1569.神奈川県)//26歳・武田信玄の西上作戦に従軍・三方ヶ原の戦いにも参加(三方ヶ原の戦い・○武田vs徳川●in1573.静岡県)//27歳・武田信玄死去、以後武田勝頼に仕える//29歳・長篠の戦いに参加、敗戦ながら生きながらえるも兄二人が戦死、兄がもっていた真田家の家督を継ぐことになる(長篠の戦い○織田・徳川連合vs武田勝頼●in1575.愛知県)
//33歳・武田勝頼の命令で北条家の領地の一部(グンマー)に侵攻、一進一退の末侵略に成功//36歳・甲州征伐・武田勝頼が死去(甲州征伐:(○織田・徳川連合vs武田勝頼●in1582山梨県)--のちに織田配下となり領地を安堵される--しかしその3ヶ月後に本能寺の変織田信長が死去(本能寺の変:○明智光秀vs織田信長●in1582.京都府)//領主・織田某の死去により持ち主不在となった周辺地区の代表を調略、地区の代表の代表となる(天正壬午の乱1582.)--絶対的な存在を失い世の中が混乱しているのに乗じて長野県やグンマーに領地を広げる--新潟県の大名・上杉景勝が領地に侵攻、上杉配下になるも一ヶ月しないうちに神奈川県からせめてきた大名・北条氏の配下になる--3ヶ月 で今度は徳川家康の配下になる--しかし北条と徳川が和睦し立場がまずくなり今度はまた上杉景勝の配下に//39歳・徳川家康が長野県に侵攻するもこれを撃退(第一次上田合戦(○真田昌幸vs徳川家康●in1585.長野県)--のちに上司・上杉景勝の上司、豊臣秀吉の配下となる//44歳・豊臣小田原征伐に参陣、活躍(豊臣小田原征伐:○豊臣秀吉vs北条氏政●in1590.神奈川県県)//46歳・文禄の役佐賀県で待機のため韓国にはいかず(文禄の役:休戦:△日本vs韓国△in1592.韓国)//52歳・豊臣秀吉死去//54歳・関ヶ原の戦い・西軍につき自城で徳川軍に勝利(第二次上田城の戦い:○真田昌幸vs徳川軍●in1600.長野県)するも岐阜県の本隊が敗れ降伏(関ヶ原の戦い:○徳川家康vs豊臣秀頼●in1600.岐阜県)敗軍に加担した昌幸は死刑を宣告されるも息子(武将・徳川家康家臣・真田信之の尽力でこれを回避、高野山和(歌山県)に追放される//65歳・そのまま病死


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