おんな城主 直虎 第11回 感想



第11回 「さらば愛しき人よ

かんそう

○亀がしたらロマンス、鶴がしたら裏切り

「井伊家が、上司である今川家を裏切るのは勇気ある選択だけど、井伊家を鶴クンが裏切るのは許せない」ってのは・・・まあ、ないわな。(しかも鶴くんはあくまで井伊の目付だし)

井伊が生き残るために今川を裏切るように、鶴が生き残るために井伊を裏切ってもそれは自然なことだから。そもそもあそこで鶴くんが井伊に忠義をたてたところで井伊の何かが変わるわけでもなく、単に井伊の処分に鶴くん死罪が追加されるってだけだろうから生きてたほうが絶対いい。(天下の大罪人とされる鶴くんをここまで擁護する心境にさせる構成のドラマっていうのはスゴイ。井伊家の人が見たら卒倒するかも?)


○そして

「鶴は裏切ったのカナ?」という和尚様の問いに対して、「裏切ってないと信じてます。」ではなく「裏切ってないと信じたいと思ってます。」という言い回しをした亀くん。”信じたいけど信じ切れないです。信じるよう努力します”みたいな?正直っちゃあ正直だけど、うまい言い回し。セリフ考えたのは脚本さん?GJだと思った

○”生きてる・生きてく”三者三様

運命の分岐点(亀の死亡フラグがたった直後)に集まった井戸で、「考えたすえの答えはどれも正しい」といういつかの昔話をする第一章のキーマン3人。「この後、三者三様の運命の選択と結果が待っているけど、それは三者三様に考えた末の道だからどれも正しいんだよ」的なことを暗示してるのかな?なんて。

○女優さんのあれは演技?

主人公が半べそで言うセリフ、「まっておるからの!亀!」
あれ、すごい子役とダブった(子役の話し方とダブった)んだけどあれはそういう演技だよね?主人公の役者さんの他のドラマみたことないから他でどういうしゃべりかたしてるのか知らんのでワカラン。(じつは統一感をだすために子役も演技でああいうしゃべりかたをしていた・とかなら「役者恐るべし」なのだが・・いかに?)

○「はい、ここで泣いてください。」

泣かせにくるシーンでかかるラン・ラン・ラララン・ランラン♪的なハミングの曲。どうしても「風の谷のナウシカ」でかかってた曲を連想してしまう。ドラマのシーンに集中できなくなるので多用しないでほしい。(使うならもっといろんな意味で絞るべき)


◎覚へ書き

○あらすじ(めんどくさいから松平は徳川で表記)

歴史パート:1562.織田と徳川の同盟成立(清洲同盟)/1562.徳川ー今川で人質交換/1562.徳川の妻の両親・今川に自害させられる/1563.謀反を疑われた井伊直親が今川家に弁明にむかう

ドラマパート:主人公の奮闘むなしく今川により徳川家康の妻子処刑寸前/そこに徳川の使者。「徳川は今川の武将を拘束した。これを家康の妻子と交換しろ」/交渉成立、家康の妻子は徳川領地に戻る。/妻の親(主人公の叔母)は自害させられる/今川家、井伊家が裏切るかどうか試す{徳川を騙って誘い出し誘いに乗れば裏切り}/幼馴染み亀、この誘いに乗り今川に咎められる/幼馴染み鶴も今川に咎められる→「(今回のこと知ってた?それともまさか裏切った?)みたいな空気」、亀は断腸の思いっぽい表情で「自分は裏切りに加担していない。自分は今川の人間だ」と宣言/井伊家、今川対策として徳川家康に助けてもらおうと手配。この工作に主人公も同行するも工作失敗/(恋愛パート・亀が鶴に「主人公と結婚しなよ」と言うも自分が今川に殺される可能性が高まると主人公に「生きて帰れたたら自分と結婚してくれ」的なことを言う。主人公この告白にOKをだす/亀(井伊直親)、謝罪・弁明のため今川のところに出向く/その途中、武装兵に囲まれる/つづく



◎おまけコーナー

新野左馬助親矩(主人公のママのお兄さん)ゆかりの地

○舟ケ谷の城山(静岡県
/左馬助の居城だったと言われている/この一帯は新野と呼ばれている/だそうです

○左馬武神社と新野左馬助親矩の墓と思われる五輪塔静岡県
/左馬助を祭った神社/新野川を挟んで舟ケ谷城の向かい側にある/井伊家は左馬助の忠義を歴代語り伝え、幕末に新野家を再興した/後年、井伊家の子孫によって左馬助の墓と思われる五輪塔がこの場所で発掘された/新野では「情けの武将」として慕われる左馬助をしのび毎年4月手もみの新茶が献上されている/だそうです


◎おべんきょう

じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

石川数正(1533-1593):武将・大名:信濃松本藩藩主・松本城城主(長野)

松平家徳川家康の生家)家臣、石川康正の嫡男として生まれ子供の頃から家康に仕える/15歳・今川の人質となり今川家に入った家康に同行/28歳・桶狭間の戦い/30歳・今川に拘束されていた家康の妻子を取り返す←いまここ/31歳・父親が家康を裏切るも数馬正は裏切らなかった/家康の息子の後見人になる/38歳・姉川の戦い/40歳・三方ケ原の戦い/43歳・長篠の戦/50歳・伊賀越え/52歳・小牧・長久手の戦い/53歳・突然豊臣秀吉配下に(理由は諸説あり)/秀吉から和泉国8万石を拝領/58歳・小田原城攻め/信濃国10万石・松本城主となる/60歳・朝鮮出兵の移動中に死没

我が長野の自慢、松本城の城主であらせられた御仁。関ヶ原の7年前、というご時勢に死亡ということで、生きて関ヶ原をむかえていたらどちらについていただろう、そして戦後家康は彼をどう扱ったろうなんて考えるとムネアツ。


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