おんな城主 直虎 第39回 「虎松の野望」 感想


第39回 「虎松の野望」

◎かんそう

○虎政の役者さん面白い
でも、これただの時代劇ホームドラマじゃんね。”八重の桜”、”花燃ゆ”もそうだったけど、このドラマも前半は国、後半は家庭、みたいな展開になっちゃうのかな。(まあ今作は最初からホームドラマで個人的には最低評価だけど)

○育ての親より産みの親よりみたこともない祖先の人?
虎松くんはなんでそこまで井伊の土地にこだわるのか?自分の母親と、自分を本当の息子のように育ててくれた義父と5-15才の間暮らしていたのに、その両親を裏切ってなぜ0-5才までしかいなかった井伊にこだわるのか?今後その謎が解けるエピソードに期待(っていうか期待はしてないがそこは理由がないとおかしいので整合性とってくれ)。
「自分が女だったせいで・・」主人公がそう思って自分を責めていたように、虎松くんもまた、「自分が子供だったせいで・・」と苦しんでいた、その苦しみの呪縛に打ち勝つには「井伊再興」しかないと思っていた・とか、ありがちでOKなのでなんか理由がほしい。

○ドラマの今現在
誰が井伊谷の領主なのかわからなかったんだけど、今回で近藤某だということがわかってスッキリ。ここは史実どうりなのね(脚も悪いようだし)

○意味深
「子宝に恵まれない」という徳川家康の息子さんに、「それにはコツがありましてな」という和尚様。しかしここで会話が終了、コツとやらはわからないままとなるのですが。今後の康公・母君の迎える悲劇と、この「コツ」っていうのがなんかいわくつきでからんででてきそう

○脳ある虎は爪隠す
「おまえは才気にあふれている。が、時として才気は他人に煙たがられることがある」。虎松くんの義父さんが虎松くんに優しく諭す。若さゆえ、みたいなベタ展開ですな。嫌いじゃなくてよ。

○手と手のシワを合わせて
ご先祖様や亀くんの墓前で手を合わせるのもけっこうだけど、虎松くんの身代わりになって首をはねられた子供の墓で手をあわせるシーンがほしかったかな。(あるいは虎松くんには教えてないかそんなこと)

○あるいは、もしも、だなんて
「もしも自分がいまだ領主だったら家督をゆずれていたのだろうか」とつぶやく主人公に「「タラレバを言っても無意味ですよ・・」」などとは言わず、「「そうかも、しれませんね」」と答えてあげる主人公ママ。優しいね。


○今週のやってみなければわからない
「やってみなければわからない」が、復活しそうですな。今回は「井伊家再興作戦が上手くいかなかったらどうしよう。」という子分に、「あきらめなければいいだけじゃん、チャンスは今回だけじゃないんだぜ?」という虎松くん。なんか主人公と言ってることは同じなんだけど今回は妙に説得力あったな。命がかかってない状況だからかな?ちなみに「認めなければ負けじゃない」「信じれば夢は叶う」こういうこというやついるけど俺はこういうの嫌いDETH


◎おまけパート

---静岡県浜松市---(のちに天下人となる徳川家康が最も長い年月を過ごした地。この地を足掛かりに、家康は戦国大名として飛躍していった)

○引間城跡(元城町東照宮
//市の中心部にある//今川氏の拠点だった//1568.三河(愛知県)から遠江静岡県)へと勢力を広げていった徳川家康がこの城を制圧した

//引間城に本拠を移した徳川家康が城の名を「浜松城」に改名、新たな城として浜松城を築城//自然石を積み上げた石垣は、400年経った今も、この城を支えている//天下を制した家康の後に続くように、浜松城を守る歴代の大名は何人も出世を遂げていったため、この城は『出世城』として意識されるようになった//だそうで


◎覚へ書き

○歴史パート:

1574.井伊直親の13回忌で直親の遺児、直虎(愛知県に僧として隠れすんでいた)が静岡県の井伊領にくる→井伊直虎南渓和尚らが直虎を徳川家康に仕えさせようと画策→虎松を僧籍からはずすため虎松の母が徳川家臣・松下某と再婚、虎松を松下某の養子とする→1575.虎松は徳川家康の小姓となり井伊を名乗ることを許され、旧井伊領地の領有も認可される

○ドラマパート:
鶴くん(井伊直親)の13回忌で、井伊谷にやってきた鶴くの遺児・虎松くんは立派な少年(15才)になっていた//虎松くん、井伊谷の民衆の豊かな生活のシステムは主人公の尽力あってのものと知り感服、かねてから秘めていた悲願を実現すべく計画の遂行を決断(秘めていた悲願→取り潰された井伊家を復活させる)//計画→徳川家康から「お下知」という形で「井伊を復活してやろう」と言ってもらう、そのために和尚様を使者にだし徳川家康の奥さんにくちきき、徳川家康の耳に要求が届くよう手配、徳川家康に嘆願書が届く//徳川家康、虎松に「井伊を名乗れ」と言えば今まで跡取りとして虎松を育ててきた部下(徳川家臣・松下某)の顔をつぶすことになる一方、過去 に井伊を見 捨てた負い目もあり悩む//徳川家康、たまたま居合わせた鷹匠のアイデアを採用、虎松に井伊を名乗るよう下知(アイデア→井伊を名乗ることを認可したのち「おまえは井伊だから××だ」とイビッて虎松本人の口から「井伊の家名を捨てます」と言わせる)//徳川家康、さっそくイビり開始「井伊は徳川の敵、今川の部下だったから信用できない」と、虎松にぞうりの管理をするという屈辱的な仕事を命令、「でも井伊という名を捨てればちゃんとした仕事につけるよ?」ともちかける→虎松、井伊の家名を守るためぞうり管理という仕事を承諾する//つづく



◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

△鷹師匠・ノブ
→のちの本多正信らしい。(本田正信は本当に鷹匠出身だったらしい。それで他の武将から侮蔑されたってのもあるかナ)
本多正信(1538-1616):武将・大名(徳川家康-秀忠):相模国.玉縄藩藩主(神奈川県)
//本多俊正なる人物(詳細不詳)の次男(正信が鷹匠だったってことはそっち系の人?)//詳細不詳・鷹匠として徳川家康に仕える//22歳・桶狭間の戦いに従軍、脚を負傷、以後足をひきずるようになる(○織田信長vs今川義元徳川家康●in1560愛知県)//25歳・三河一向一揆で反・徳川家康に回るも敗北、愛知県を出て奈良の松永久秀に仕える(○徳川家康vs一向宗●in1563愛知県)//詳細不詳・その後諸国を流浪し(松永久秀は1577に死んでいる)ふたたび徳川家康に仕える//44歳・伊賀越え//52歳・小田原征伐のちの徳川家康の関東移封に付き従い相模国玉縄(神奈川県)の大名となる//62歳・関ヶ原の戦い徳川家康の嫡男・徳川秀忠に付き従い進軍するも長野県の真田昌幸の抵抗にてこずり徳川家康の足を大いにひっぱる(○徳川家康vs石田三成●in1600.岐阜県)//関ヶ原の戦いに勝利したのちの徳川家康と朝廷との交渉に尽力、徳川家康が将軍になったのちは側近として政治を主導//67歳・徳川家康が隠居。徳川2代目・秀忠のもとで働く//78歳・徳川家康が死去。家督を嫡男に譲り隠居するも自身も家康の2ヶ月後に死去

なんとあの松永久秀様に仕えたこともあるとか。徳川家康のブレーン的な?人。生え抜きではない+奉行タイプなのでので古参の武将とは仲が悪い。



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