西郷どん 第28回 「勝と龍馬」 感想


第28回 「勝と龍馬」

◎かんそう

真田丸での役はよかったけど・・

勝海舟の役者さん、イマイチ。喋り方がボソボソすぎ。勝先生はもっとキンキン声でまくしたてる人にしてほしかった。(個人的には武田鉄也さんがベスト)

(´A`)<真田丸上杉景勝役はすごくよかったんだけど・・・観てるうちに慣れるかな?


一橋慶喜公の役者さんはすげえよかった!

人気ある子なのによくあんな憎まれ役引き受けたよな。憎たらしい場面では高慢チキチキに、西郷にだしぬかれたら「キーッ、ぐやじー!!」みたいな醜い顔で主人公を引き立てる、それが自然で演技演技してない。いい役者さんだよね。


坂本龍馬はイマイチ。

逆に坂本龍馬の役者さんはなんか芝居がかってて引く。観てるこっちが恥ずかしい。土佐弁のせいなのかな?これも慣れか?


(´A`)<あと、西郷と龍馬、実際の出会いはいつだったんだろね?



◎今週の「命かけもす」宣言

今週の命かけもすは・・

(´A`)<「身命を賭して長州征伐にあたる」とのことでした


◎おまけパート
---山口県.岩国市---
山口県東部。長州藩藩主・毛利一族の吉川(きっかわ)家が治める岩国領があった場所//長州征伐の参謀に任命された西郷は、戦いを避けるため密かに船で岩国に入った//
  -新港(しんみなと)-
岩国藩の海の玄関//第一次長州出兵の際、西郷隆盛らはこの港から上陸した//

○御館跡
//西郷はここで岩国領主・吉川監物(けんもつ)と会談を行い禁門の変の首謀者とされた三家老(国司信濃・益田弾正・ 福原越後)の切腹を早く実行するよう迫ったという//西郷が書き送った「和平の条件が満たされた暁には、捕らえた長州兵を解放する準備がある」旨を伝える書状が残されている//

○龍護寺(りゅうごじ)
山口県毛利藩三家老の一人、福原越後切腹をした寺//征伐軍が攻撃を開始する期限が迫る中、福原は無念の思いで果てたと伝わる//

○行きたいレベル・D
(´A`)<山口県まで行けるならもっと違うところに行くかな。


◎覚へ書き---1864年・主人公36歳---

歴史パート

・下関戦争(○英・米・仏・蘭vs山口県●in1863-1834.山口県
※1863.(下関事件)と1864.(四国艦隊下関砲撃事件)に起こった武力衝突。(今回ドラマは1864年なので四国艦隊砲撃事件のほう)
:::まずは戦争のきっかけ・1863.下関事件→:::山口県→「鎖国支持・開国反対、政治は徳川政府ではなく天皇(朝廷)がやるべき」という方針→天皇が「ガイジン嫌い、追い払え」とワガママ、困った徳川政府が「わかりました皆で外人を攻撃します」とでまかせの約束→山口県・「天皇様が命令して徳川政府が約束したんだからガイジンを攻撃するのは当然」と解釈、山口県海峡を通過する外国船を砲撃→怒った外国が報復、山口県はボコボコにされるも海峡の封鎖に成功:::
▲▲ココカラ1864.の四国艦隊下関砲撃事件▲▲→海峡封鎖を続ける山口県にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの艦隊が戦争をしかける。山口県じゃあとうてい勝ち目がないうえに山口県軍の主力兵は国内戦争で京都に行ってる状態だったのでボロクソに負け降伏。(この敗戦を受けて山口県は「外国排除は不可能」と悟り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め最終的に徳川中央政府を倒すに至る)

・第一次長州征伐(○徳川政府vs山口県●in1864.山口県
:::まずは前置き→山口県が「国のため」に「良かれと考え」中央政府の行政に干渉→中央政府はもちろん、周囲の県からも「調子コイてる」と受け止められ山口県がボコボコに(戦争)され最終的に政治の中心地、京都への出禁処分(8月18日政変in1863.京都府)→「誤解だ・理解してもらうには京都に火をつけて混乱させ天皇をさらって山口県にきてもらうしかない」と一部山口県民が京都で計画→その一部山口県民の計画が漏れ、公安とモメて殺傷沙汰,公安と山口県民双方に死者(池田屋事件in1864.京都府)→「そこまでせんでええやん」一部山口県民が逆ギレ、抗議のため軍隊を京都に送る→「山口県の兵隊が京都を攻めてきた」を大儀名文に他の県が軍隊を送り返り討ちに→山口県が負けて国家反逆罪県が確定(→禁門の変.1864.京都府)→(▲▲ココカラ第一次長州征伐.in1864.山口県▲▲)→今度は国が山口県に軍隊を送り山口県に落とし前を要求(第一次長州征伐in1864.山口県)、山口県、県の総意として謝罪と責任者の処分(死刑)と今後は徳川様に従うことを約束する

○ドラマパート:
//前回勃発した戦い・「禁門の変」は中央政府の勝利に終わる//戦時災害の始末、消火や炊き出しなど。さらに負傷した敵兵も治療//「山口県に報復せよ」という天皇の命令。しかし戦争を避けたい西郷は一橋慶喜にあいにいく//西郷、戦争に反対のはずが「自分も山口県の征伐に協力する」と名乗りをあげる//一橋慶喜、西郷に指示「勝海舟に会って海軍の軍艦を戦争に徴収する旨を説得しろ」//西郷、勝海舟に会い政治談議。(勝海舟の弟子・坂本龍馬とも知り合う)//「中央政府の横暴にはお手あげだ、自分は役を辞職する」という勝海舟に「それは逃げだ、それで困るのは民だ。でもどうしたらいいかわからない」という西郷に「中央政府に恭順する現状がおかしい、中央政府徳川幕府という図式に見切りをつけるべき」などの政治談議//1864.中央政府の音頭で山口県に報復のための軍隊が挙兵。しかし段取り・方向性が決まらず。その間に西郷は部下を山口県に送り山口県の内情を調べさせ「降伏やむなしの声あり」との情報を掴む//西郷、「山口県も今後の県の身の振りをどうするかで揉めている」という確証を得た西郷、戦争を避け降伏を勧めるため単身山口にのりこみ和平交渉を成功させる//しかし一橋慶喜はこの和平策に激怒「→山口県を破壊せずに終戦するとはなにごとか」→西郷「みんな生きたいんだ、殺すのではなく生かす政治をするべきだ、あんたは民ではなく徳川一族を生かすことを優先させている、間違っている」→一橋慶喜激昂、「切腹しろ」という→西郷、短刀を抜くも一橋慶喜に迫り畳に突き刺し「あんたとはもう縁を切る」と宣言//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

×吉川監物(きっかわけんもつ1829-1867.):領主→大名:山口県
山口県の毛利某というお殿様の家臣・吉川某の長男//15歳・父が死去、家督を継ぐ//35歳・徳川中央政府山口県が戦争になるも、穏便に済むように奔走(第一次長州戦争○徳川政府vs山口県●in1864.山口県)←■■イマココ■■//37歳・再び徳川中央政府山口県に侵攻するも今度は迎撃、撃退に貢献(第二次長州征伐○山口県vs徳川政府軍●in1866.山口県)//39歳・死去→※死去を上司の山口県が秘匿、明治新政府に報告しない→何も知らない政府、吉川の地位を昇格、領主から藩主とする→山口県、吉川の子を藩主にさせたのち、「吉川が死去した」と届け出てことなきをえる

×徳川慶勝(とくがわ よしかつ1824-1883):大名(愛知県のお殿様)・政治家:
岐阜県のお殿様・松平某の次男//25歳・愛知県のお殿様に。「外国人の来日反対・政治は天皇がやるべき」という反政権的な考え方で時の政権実質トップに睨まれ強制隠居、お殿様の座は保守派の弟に(→34歳・安政の大獄.in1858)//27歳・政権トップが暗殺される(桜田門外の変in1860)→再び中央政府に必要とされる//29歳・徳川将軍補佐に//30歳・自分の後継お殿様だった弟が隠居。自分の子を次のお殿様にして自分が実質愛知県の実権を握る//39歳・「徳川家と日本各県が話し合って政治を」という鹿児島県らが「政治は天皇がやるべき」という山口県を政界から追放。そして「愛知県も一緒に政治をやろう」と誘う→これを辞退//40歳・「徳川政府に逆らう山口県をボコボコにせよ」・という徳川プロデュースの戦争の指揮を執るように命令される→山口県から謝罪と責任者処分をとりつけ戦争を終わらせる(第一次長州戦争○徳川政府vs山口県●in1864.山口県)←■■イマココ■■//42歳・山口県が再度反抗→徳川政府から「また戦争するので指揮をとるよう」いわれるも今度は拒否(代案として防衛任務につく)→結局その戦争で徳川が負ける(第二次長州征伐○山口県vs徳川政府軍●in1866.山口県)//44歳・徳川政府を滅ぼすため山口県や鹿児島県が新しく立ち上げた政府に味方(王政復古・戊辰戦争・江戸無血開城明治維新in1868.)→地元・愛知県が今の徳川政府か新しい政府につくかで揉める→地元の部下に新しい政府に従うよう命令、逆らう者は死刑をはじめ厳しく統制(青松葉事件in1868.愛知県)→戦争は新しい政府が勝利、明治時代に入る→自分と逆で徳川に味方し新政府に逆らったせいで政治犯・賊軍の将となった兄弟の処分が軽くなるよう奔走//56歳・隠居//59歳・死去


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