風林火山 第37回 「母の遺言」 感想


第37回 「母の遺言」 

◎かんそう

○信玄ママ昇天
武田信玄のお母様・大井夫人がお亡くなりになられました。その信玄ママが生前、三条夫人に「苦労は修行だと思え」って言ってて。はじめ、(修行(苦労)してもその成果を発揮することなく人は死ぬものでは?だったら苦労も修行もなんの意味もないのでは?)なんて思ったけど。「苦労(修行)を重ねるうちにいずれそれを苦と思わなくなれる、そしたらその後は苦労なんて軽くいなせるようになれる(かも)」って考えればたしかに苦難のときも少しは気が楽になるのかな・なんて思うようになった。

でも・・・

こう言っちゃなんだけど、たしかに政争の駒として嫁ぎ、醜い権力争いをみてきたその心中は察するにあまりあるよ・・・あるけれど。雑兵や、犯され狩られ売られ、殺され捨てられる弱き民ってわけでもない、やんごとなき立場のお方が「すべての悲しみと憎しみを見てきた」って言うのはどうか?とも思った。「恵まれた身分で産まれた人間の不幸コスプレでは・って本人(脚本家)は思わないのカナ?」なんて思った。俺なら(***よりはマシだ・***にくらべたらじぶんは恵まれていた・感謝していいのか申し訳ないと思ったらいいのかわからないが、こうやって悩めることは恵まれている証拠だ)なんて思うけどね。綺麗なおベベ着て畳の上で「自分はすべての悲しみと憎しみを見てきた」なんて言えるなんて。(俺達底辺のことなんて想像もつかない?これっぽっちも眼中ねえのかい?)とか思っちゃった。まあ、ともあれ、お疲れ様でした。

合掌。(´A`)<チーン。

○魁!長野業正
「あなた様は一旦避難し援軍を要請してくだされ。それがしはあなた様が帰ってこられるまでここで戦いつづけます」
という武将”漢”長野某。
それに対しあなた様@上杉憲政は「ながの!」と叫ぶも「死ぬなよ、死んではならぬ」とは言わず、「必ず戻ってくる!」とも言わず。(名前を呼んでみたけど言葉がみつからない)っていうシーン。いかにも衰退している、滅んでいく、っていうあなた様@上杉憲政の運命を暗示してるようでいい演出。(´A`)<グッときた。

○わたしってホントばか・・
「共通の敵(上杉謙信)を牽制するために北条と武田、そして今川はいずれ同盟しなければなりません。」って勘助が言って。言われた北条氏康が「なんと!」なんつって驚くんだけど。
(「第22回」の川越夜戦?で、北条・武田・今川は同盟してなかったっけ?)って俺は思って。
確認してみたら、たしかに年代的にも22回で三国同盟はありえない。あのやりとりは同盟ではなく、「今回は攻めこまない」っていう協定?的なもの?だったのか。ドラマの演出の都合で年代を変えたのかと勘違いしてしまいまいたよ。私ってホント・馬鹿。

(´A`)<こういうのめちゃハズイ。誰も自分のことなんて気にとめてないっていうのはわかってても自分は自分をみているから、他人とか関係なくハズい。


◎おまけパート

---長野県.上田市---

生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)
//日本列島のほぼ中央にあることで知られている//武田信玄ゆかりの文書が奉納されている→{●武田信玄願文・武田信玄上杉謙信との川中島での戦いを前にみずから筆をとり勝利を祈願したという願文}さらに、武田信玄の家臣たちが信玄への忠誠を誓い書いた文書・起請文が200以上残されている→{●小山田信茂起請文・●武田信廉起請文}

//枕草子にもその名が記された信州最古の温泉//付近には鎌倉時代から残る多くの寺社があり{●国宝・安楽寺八角三重塔・●常楽寺・●北向観音}、「信州の鎌倉」と呼ばれている

○行きたいレベル・S
めっちゃ近所だし行ったこともあるけどちゃんと見たことないや。来年行こっと。


◎覚へ書き

○歴史パート:
1552.神奈川県の大名・北条氏康がグンマーの大名・上杉憲政の城(平井城)を攻めおとす
//上杉憲政は逃走、新潟県上杉謙信を頼る
1552.5.30.大井夫人死去(享年55)
//辞世の句//「春は花 秋は紅葉のいろいろも 日数つもりて 散らばそのまま」

○ドラマパート:
「あんたは本当によく働いてくれてる・ありがとう。で、聞いてほしい。これからは意味のない戦争はやめてほしい。」勘助に語る信玄ママ。「息子・信玄は夫・信虎との関係を消化できず排除することで解消した。だから同じ問題がおこっても(もし今後信玄の息子が信玄に噛み付いても)円満に解決できないだろう。心配で心配でしょうがない。どうか武田を支えて欲しい」」//勘助、神奈川県の北条家に行き今回今川家と政略結婚することについての正当性の説明とともに「新潟の上杉謙信対策のために北条も武田と同盟を結んでほしい」と提案//神奈川県の北条氏、関東全域の行政をしきっていた武将・上杉憲政に戦争で勝つ。(上杉憲政は新入武将に給料をはずみ古参を軽ん じ自分は遊び歩いた。そしてそれを咎める部下がいなかった・滅びて当然・とのこと)//1552.上杉憲政新潟県へ敗走。しかし共倒れを避けるため別行動した息子は護衛の部下に裏切られ北条にひき渡される//引き渡された上杉憲政の息子・北条氏康に(敬意をもって)殺される。(部下は「不忠モノのクズ扱い」として殺される//死に体の上杉憲政新潟県に逃がし、自らは籠城し敵(北条)と戦う忠義者武将・長野某を助ける方法がないか模索する武田側の武将・真田某//信玄ママ(大井夫人)死去


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

北条氏政:(1538-1590):大名(後北条氏当主):相模・小田原城(神奈川県)
相模の大名・北条氏康の次男として生まれる(後に兄が死去)/22歳・家督を継ぐ/31歳・武田信玄に攻められる/32歳・上杉謙信と同盟(後に破棄)/34歳・父・氏康が死去(ここまでの政治運営は実質氏康が行ってた)/34歳・武田信玄と同盟(後に破棄)/43歳・家督を息子に譲る/45歳・織田信長に従軍、武田家を滅ぼし領地を与えられる/53歳・豊臣秀吉に徹底抗戦するもかなわず自害
※「わしが死んだらあいつが当主になると思うと気が重い」的なことをパパ(北条氏康)に言われた・など、ダメ息子伝説的な逸話を持つ剛の者。(政治手腕にすぐれ愛妻家だったとも言われている
※妻は信玄の娘

×倉賀野尚行(****-****):武将(上杉憲政-上杉謙信-直江兼続-酒井忠勝):上野国.倉賀野城城主(グンマー)
詳細不詳//上杉憲政に仕える//上杉憲政没落後、上杉謙信に仕える//1560.上杉謙信の関東出兵に従軍//1561.上杉の小田原城攻めに参加//****.上杉家武将として北条・武田に対し善戦するも周囲の友軍が陥落していく//1565.武田信玄により自城・倉賀野城が陥落、新潟県におちのびる//1574.城を奪還すべくグンマーに潜伏するも計画は頓挫//越後を本拠とし、名を長左衛門統基と改め、直江兼続に仕える//****.直江家断絶、庄内藩主・酒井忠勝に仕える//***米沢藩・上杉定勝に帰参

×上杉龍若丸(うえすぎたつわかまる****-1552or1554):グンマーの大名・上杉憲政の息子(元服してない)//上野国.(グンマー)
//関東管領(関東では一番偉いお役人)・上杉憲政の嫡男//1552.1.父親が神奈川県の大名・北条家に敗れ新潟県に逃走//1552.3.上杉龍若丸は父・上杉憲政とは違う場所(御嶽城)にいたがその城も落城、龍若丸は敵に寝返った家臣に捕らえられ引き渡され神奈川県で殺された。(享年11or13)←イマココ
※グンマーから神奈川県に連行中に逃走するも追い詰められ静岡県で自刃という逸話、その逸話どうりの墓、地名があるんだそうな

×妻鹿田新助(めかたしんすけ・****-1552):武将(上杉憲政):上野国(グンマー)
//詳細不詳・グンマーの大名・上杉憲政に仕える(上杉憲政の嫡男の乳母を妻鹿田新助の妻がしていた)//1552.神奈川県の大名・北条氏の侵攻により主君・上杉憲政が新潟へ逃走。自らはグンマーで北条氏に抗戦していたが、最後は敵(北条氏)に上杉憲政の嫡男を差出し一族の保身を訴える。しかし敵の大将・北条氏康に不義をとがめられて誅された(上杉憲政の嫡男も殺された)←イマココ//

×真田信綱(1537-1575):武将(武田信玄-勝頼):信濃国.真田本城(長野県)・上野国.岩櫃城(グンマー)
//長野県の豪族・真田某の嫡男//5歳・海野平の戦い・一族が敗戦、グンマーに逃走(○武田信虎村上義清vs海野棟綱●in1541.長野県)//父・真田某が武田信玄に仕え、のちに自らも出仕(前半生は不詳)//****長野県・小岩岳城攻め・初陣。一番槍の武功を挙げる//25歳・第四次川中島の戦い・参戦(△武田信玄vs上杉謙信△in1561.長野県)////31歳・父が隠居、家督を継ぐ//32歳・駿河攻め・先鋒を務める(第一次駿河侵攻:○武田信玄vs今川氏真●in1568.静岡県)//33歳・武田小田原城攻め・三増峠の戦い・殿を務め戦功を挙げる(△武田信玄vs北条氏康△in1569.神奈川県)(三増峠の戦い:○武田信玄vs北条氏照北条氏邦●in1569.神奈川県)////36歳・西上作戦・従軍(西上作戦:山梨県の武田軍が静岡や愛知を制圧しながら京都を目指す作戦in1572.)/36歳・三方ヶ原の戦い・参陣(三方ヶ原の戦い・○武田vs徳川●in1573.静岡県)///36歳・主君・武田信玄死去、以後武田勝頼に仕える//38歳・父、真田某が死去//39歳・長篠の戦いで戦死(長篠の戦い:○織田徳川連合vs武田勝頼●in1575.愛知県)

武田二十四将//侍大将//「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されている
※”信”の字を拝してる・武田二十四将・こんな有名な人なのに「なんかすごい早死にした真田昌幸じゃない人」っていうイメージしかないや。(しかもそのイメージすら誤ってるっていう)


○たんご

○譜代・旗本・御家人・とは
大前提→時代により定義に変遷があり、また例外もあってはっきりさせることが難しい

譜代(=譜代大名):石高(給料:領地)が1万石以上//将軍に拝謁できる。//関ヶ原前より、徳川家に仕えていた大名
旗本   :1万石以下~200石//「直参(じきさん)旗本」という旗本は将軍に拝謁できる(この『直参』だけが旗本であるという考え方もある)
御家人 :200石以下//将軍に拝謁できない。

※「譜代>旗本>御家人」←「外様大名」はこの序列のどこに入るの?