西郷どん 第40回 「波乱の新政府」 感想


第40回 「波乱の新政府」

◎かんそう

○物語の趣旨とはズレますが・その①-当事者になっても「今日」より「明日」と言えるか-

「今、憎しみあって争いあって犠牲者被害者がでても100年後豊かな国になれるならそれでいい」という大久保利通


(´A`)<「さすが大久保利通、そのとうりだ!!」なんて、テレビの前なら皆言うだろうけど、実際そのせいで「自分が」被害者・犠牲者になるなら反対するだろうな。特に今の時代の人間は絶対そう。

(´A`)<なんて思いましたまる

(´A`)<それにしても大久保さんはなんであんなに焦ってるんだろ。欧米視察後ならまだしもまだ海外列強を見てきたわけでもないのに・・

○物語の趣旨とはズレますが・その②-住みたくもない豪邸に住み、したいわけじゃない贅沢をする理由-

西郷「自分を飾る必要なんてない。誠意をみせれば相手はきっとわかってくれる」

大久保「それは理想でしかない。たしかにキミはそうかもしれないが、欧米ではこちらの身なりがよくなきゃ相手は話もきいてくれない」

(´A`)<ハラたつけど大久保が正しいと俺は思う。世の中、キレイゴトじゃ進まない。・・・

(´A`)<自分が贅沢することに対して自分自身を正当化してるんじゃないの?とは思うけど・だったら自分が努力して政治家になって貧乏暮らしすればいいだけ・って話だしね・・

(´A`)<前に民主党が与党になったときに「宝くじの配分率はおかしい、公園や寄付よりくじ購入者にお金がいくように改善しなさい」って指示をだしたのよ。で、庶民はヤンヤヤンヤの大歓迎。

(´A`)<ところが・・・

(´A`)<民主党が「改善策がでるまでくじの販売中止」って指示を出したとたんに庶民が大反対。

(´A`)<「おまえたちは改善しろ、ただし我々は待たないし我慢もしない。待つくらいなら改善しなくていいからくじを売るべきだ。」っていうね。

(´A`)<で、その勢いに呑まれて「やっぱ改善しなくていいです」ってなった民主党。結局宝くじは今も民衆を養分に金を集め低い確立で一部の金を一部にめぐんでくださるっていう状況のまま。

(´A`)<「周りには質素倹約・改革・我慢を強いるが自分は例外」。

(´A`)<今も昔もどいつもこいつもクソですわ。


○緊迫した閣内会議にて

「こうするのが日本のためだ!」「それはあんたのためだろう!我々は断固反対する!」「何を言うか、キミ達こそ自分達の派閥のため我らの政策を阻んでいるのだろうが!」ヒートアップする役者さんたち。

(´A`)<そんな役者さんたち熱演の中、岩倉具視の人の演技だけがグダグダ浮いてる。

(´A`)<アレはひどい。見てる俺でさえイラっとするんだから役者さんたちはそうとう迷惑してるんじゃない?

(´A`)<「シリアスなドラマなんだから重要な役に役者じゃない人間をいれないでほしい・たとえ有名人でも著名人でも演技が素人なら起用しないでほしい」・とか役者さんたちは思わないのかなあ?


◎今週の「命かけもす」宣言

今週の命かけもすは

(´・ω・`)<ナシよ

○その他小並感

(´・ω・`)<ナシよ


◎おまけパート
---千葉県.船橋市---
船橋市なのに習志野という地域が3箇所ある(これらの地域はかつて『習志野原』と呼ばれた一帯の地域だったためその名残りとして現在もその名が残る)
西郷が編成した御親兵(のちの近衛兵)がたびたび演習をおこなった地//かつて大和田とよばれた広大な台地は幕府直轄の牧場がおかれた馬の産地だった//馬を逃がさないために築かれた土手が今も残されている(→○下野牧二和野馬土手)//1873.(明治6)明治天皇は、近衛兵を引き連れてこの地で薩摩・土佐・長州の旧藩士たちで編成された2800人の近衛兵が一堂に会する大規模な演習を統監。お供には天皇の信望厚い近衛都督の西郷隆盛もいた//その時に天皇が野営した場所が現在の船橋市習志野台4丁目あたりであった//この時に天皇は、この地が演習場として大変有効な土地であると判断、以後この地を『習志野之原』と命名し、陸軍の演習場として活用するよう命じた//

明治天皇船橋行在所
前述の大規模演習のおりに天皇が宿泊・休憩・食事をとった旅館業「桜屋」の山口丈吉宅跡//現在の千葉銀行船橋支店の位置で、前に石碑が建っている//

明治天皇駐ひつ之処の碑
前述の大規模演習のおりに天皇が野営した場所//石碑が建立された場所は「御幸台」と呼ばれていた//船橋市習志野台4丁目に現存していたが1994.(平成6)、現在の場所(薬円台公園内)に移設された

---千葉県.習志野市---
習志野騎兵旅団発祥の地
明治天皇は演習を行った地を「習志野ノ原」と命名し陸軍の演習場に定める//以降習志野には駐屯地や陸軍学校の施設がおかれ発展をみせていった(→○旅団司令部の門跡)//藩の垣根を越え結成された近衛兵は新時代の象徴の一つだった

○行きたいレベル・D

(´A`)<クソどうでもいい


◎覚へ書き---1871年・主人公43歳---

○歴史パート:

廃藩置県(in1871)
※独立採算の地方自治体(→藩)をなくし、あらたに政府が一元管理する「県」を創設、税金も法律も全部中央政府が一括します・という改革
//当時日本全国の税収はその土地土地の支配者が受け取っていて、明治新政府の税収は日本全国の三分の一以下だった。また、「外国の侵略に備えて軍隊を作りたいから全国から人を募集する」ということもその土地の支配者の許可がないとできなかった//国を強くする(=富国強兵)ために資金と人員が必要だった明治政府が土地の支配者の「税金を受け取る権利・人を支配する権利はすべて天皇(朝廷)のもの」とし、土地の支配者たちの権力を剥奪した//ただ、いきなりこれをやると今まで税収で左うちわだった支配者たちの反発がすさまじいのであらかじめ2年前(1869)に「天皇が土地の支配者に預けているということになっている税と人民を支配する権利は天皇に返してもらうという法令をつくるけど返してもらった権利はそのまま貸しとくから今までどうり暮らしてね・でも、人民(とくに武士)は兵隊として必要だからちょこちょこかえしてもらうよ」という御触れをだして足場を固めておいた(→in1869.版籍奉還)//

御親兵(in1871-1872.)
天皇を護衛する軍隊だが、前述の廃藩置県で各地の有力者が反発、反乱を起こしたときそれを粛清する、あるいはその存在をしらしめあらかじめ反乱を抑制させるために作られた側面も大きい。明治新政府はこの御親兵の力を背景に中央集権化政策を一気に実施しようとした
明治政府最初の直轄軍隊//厳密には明治維新当初、長州藩兵などで組織される。も、少数のうえ雑然とした性格のため解隊//1871年(明治4)あらためて組織される。同年執行された廃藩置県(1871.)とともに、名実ともに近代日本最初の国軍として機能//徴兵令(1873.)の施行とともにその役目を新軍隊に譲って本来の業務である皇居警護に専念//1872.「近衛」と改称//1891.「近衛師団」となる//1945.他組織と統合//1946.解体


○ドラマパート:
//大久保利通岩倉具視が鹿児島県入り、鹿児島県の実質支配者・島津久光に新政府参入を命じる(真意→支配者を鹿児島県から引き離すことで鹿児島県の指揮系統を弱める狙い)島津久光はこの真意を見破り辞退(仮病)//西郷、大久保らに「御親兵」の設立を提案(→大久保らから廃藩置県(当時各地の有力者が徴収していた税などの権利すべてを中央政府一極に集中させる)の計画を聞く→当然地方の有力者は反発する。反乱が起こる→圧倒的な軍を設立し、反乱できないように威嚇しよう→さらに各地から優秀な武士を招集することで各地の戦力を削げる・職を失った侍たちの就職の受け皿にもなれる・という考え)//大久保利通、元君主で鹿児島県実質支配者・島津久光と決別。(→自分は中央で国を動かす。自分は鹿児島県トップより大きな人間になった)//1871.西郷、東京入り。中央では廃藩置県の段取り(早急に・順を追って)で意見が分かれる(早急に中央へ権力を一極集中させるべき→廃藩置県して権力とカネを中央に→地方が反発するぞ→それをみこした鎮圧のための兵隊をつくる→人件費がかかるぞ→廃藩置県すれば税収でなんとでもなる→ゆっくりやって反発を緩やかにすれば兵隊もいらず金がかからないぞ→そんなペースじゃあダメなんだ・で堂々巡り//誰になんと言われても、西郷の説得すら聞き入れず早急にことを運ぼうとする大久保に西郷はとまどいながらも支える決意//政府内部は派閥の主導権争いでバラバラ。内戦が続いて貧しい暮らしを余儀なくされている国民をよそに暮らしは贅沢。これを正そうとする西郷に「そこはそれでいい」と言う大久保。「周囲の意見に耳をかさず強引に廃藩置県を断行しようとする・鹿児島県に妻子がいながら東京に妾と子供・贅沢は必要だからやっている」そんな大久保に違和感をもつ西郷、(自分は政府・大久保とやっていけるのか・・・鹿児島に帰ろうか・・・)西郷迷う//大久保、大政奉還を強行しようとする→他勢力が反抗、政府からの離脱を示唆→離脱されると政府そのものが瓦解しかねない→いつもならここで大久保を助ける西郷が姿をみせず大久保が浮いた状態に→大久保ピンチ→そこに西郷があらわれ全員を説得。廃藩置県は決行されることに(→●in1871.廃藩置県)//つづく

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

×後藤象二郎(1838-1897):武士-政治家:高知県
高知県の上級武士の嫡子//10歳・父親死去。のちの高知県実力者・吉田東洋に預けられ育ちその後ろ盾で公務員の仕事につきエリートコースに//24歳・後ろ盾の吉田某が暗殺される→職を解任される//25歳・東京で英語や航海術を学ぶ//26歳・高知県の公務員職に復帰//高知県の実質トップ・山内某に気に入られ高知県公務員要職につく//28歳・上海を視察//29歳・坂本龍馬の発案とされる大政奉還(徳川政府の延命策)を成功させ徳川政権存続に貢献(→大政奉還1867.)。しかし結局鹿児島県や山口県が強引に徳川政府をつぶし後藤が所属する高知県は立場的に弱くなる(→王政復古・戊辰戦争・江戸無血開城in1868)//30歳・明治新政府発足、政府要職を歴任(→明治維新1868.)//34歳・(→廃藩置県1871●←イマココ)//36歳・政府内党争に敗れ政府から離脱(→明治6年政変1873)、ともに政府から離脱した仲間と政党を結成し政府と対立するものちに政府と迎合、農商大臣など政府要職を歴任//59歳・病死

(´A`)<昔読んだ坂本龍馬の漫画でめちゃくちゃ悪人に描かれててその印象が強いけどwikiで略歴をみるぶんには全然いい人っぽい(坂本龍馬との面識も龍馬が長崎で商売を始めてからが初対面)。相当な有名人だと思ってたけど略歴・解説が結構短くて意外だった。


板垣退助(1837-1919):武士-政治家:

//高知県の上級武士の子//19歳・高知県の公務で東京に勤務//30歳・薩土密約(1837.)//31歳・戊辰戦争では明治新政府に従軍、祖先が地元の有力者だった山梨県を攻略、(山梨県の板垣某という武将が先祖だったので山梨県民からの支持をとりつけるため姓を「乾」から「板垣」と改姓)(戊辰戦争明治新政府vs徳川旧政府残党●in1868.日本各地)//34歳・新しく発足した政府(明治政府)の閣僚に//34歳・廃藩置県1871●←イマココ//36歳・政府内党争に敗れ政府から離脱(→明治6年政変.in1873)、ともに政府から離脱した仲間と政党を結成し政府と対立する//38歳・ふたたび政府に参閣するもまもなく辞職、「開かれた政治」をめざし政治運動//45歳・政治演説の場で襲撃される。このとき発っした「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が有名に(岐阜事件・in1882.岐阜県)。のちも内閣に参閣したり辞職したり政党を結党したり政界で活動//63歳・政界引退//82歳・死去

(´A`)<戊辰戦争山形県が政府に反抗し負けたとき、政府側だった西郷隆盛は反抗した山形県を厳しく罰っさなかった・っていうのはしってた(ドラマでそのへんにほとんどふれてないことにイライラした)けど、同じように板垣退助戊辰戦争で政府に反抗した福島県に寛容な処置をくだしたんだとか(その後地元の人に感謝崇拝されたっていうノリも同じ)。

(´A`)<後藤象二郎もなんだけど、昔読んだ坂本龍馬の漫画で、板垣退助もめちゃくちゃ悪人に描かれてて。その印象が強いけど実際は身分制度撤廃・四民平等を願い続けたいい人っぽい。でも幼少期に刷り込まれた「板垣退助と後藤象次郎は悪人」っていうのを拭うことができないので「板垣退助」を主役で大河ドラマ作ってほしい・と思う(征韓論絡みでNHKのそっち系職員団体から忖度圧力かかるから無理かな・・・)

大隈重信(1838-1922):武士-政治家:早稲田大学(東京都)

佐賀県の上級武士・大隈某の長男//23歳・オランダの学問を学び講師に//30歳・明治新政府に参閣し活躍(明治維新in1868.)//33歳・廃藩置県1871●←イマココ/35歳・西郷隆盛らが主張した韓国との関係改善法案に反対(→明治6年政変1873)//39歳・鹿児島県が叛乱を起こす。政府は軍を送り迎撃、その支出費用の調達とその後の財政運営に携わった(西南戦争in1877)// 43歳・政府内抗争に敗れ政府から離脱(明治十四年の政変in1881)//政党をたちあげ現政府に注文//50歳・参閣、外務大臣となる//51歳・自身を標的とされた爆弾テロにあい右脚を失い政府から離脱(大隈重信遭難事件in1889)//58歳・再び政界入り//60歳・内閣総理大臣となるも4ヶ月で辞任//69歳・政界を引退し文化活動に尽力//75歳・再び政界に復活((´A`)・・いいかげんどうでもいい、とっとと死ね)、76歳で再び内閣総理大臣に//76歳・第一次世界大戦in1814.//78歳・失策などにより内閣総辞職、政界から完全に引退//85歳・病死(っていうか85なら老衰でいいじゃんね)

(´A`)<西郷隆盛とは仲が悪かったらしい。福澤諭吉とは仲がよかったらしい


×江藤新平(1834-1874):武士-政治家:佐賀県

//佐賀県の下級藩士、江藤某の長男//19歳・神奈川県にペリーが来航in1853//20歳・(日米和親条約1854)//22歳・開国の必要性を説いた意見書を執筆、のちに政府に重用される//23歳・結婚//28歳・脱藩し捕まる、本来なら死刑のところ、その才覚が佐賀県の目にとまり無期謹慎で済む//33歳・謹慎解除//34歳・佐賀県からの公務員として明治新政府に参加(→王政復古・戊辰戦争・江戸無血開城明治維新1868.)。文部大輔、左院副議長、創設された司法省の司法卿として、学制、四民平等、警察制度、司法制度の整備など、近代民主主義国家の確立に尽力//37歳・廃藩置県(1871.)●←イマココ////39歳・政府内闘争に破れ政府を離脱(→明治6年政変1873)//40歳・帰郷した佐賀県で対政府の叛乱、江藤はそのリーダーにかつぎあげられる(佐賀の乱○明治政府vs佐賀県の元・武士●in1874.佐賀県)。政府の鎮圧軍に敗北、一方的な裁判で死刑宣告、斬首、首は公衆にさらされた

(´A`)<さらされた首の写真が残っていて、普通にネットでみれる。ブルブル


×三条実美(1837-1891.)公家・政治家:三条邸跡・梨木神社(京都府

京都の公家・三条某の三男//21歳・徳川政府打倒・外国排斥(尊王攘夷)運動に傾倒、思想を同じくする山口県と組んで政治活動を行う//23歳・思想の違う団体の起こしたクーデターに破れ山口県に敗走(8月18日の政変○鹿児島・福島県vs山口県●in1863.京都府)//29歳・政敵だった鹿児島県と山口県が同盟(→薩長同盟1866)//31歳・山口県・鹿児島県などが政府・徳川幕府を打倒。政界復帰を果たす(→王政復古・戊辰戦争・江戸無血開城明治維新1868.)//34歳・廃藩置県(1871.)●←イマココ//36歳・政府内の派閥・政策争いの板ばさみで体調を崩し倒れる(→明治6年政変1873)//52歳・政治のゴタゴタ・天皇のマヌケ采配で2ヶ月だけ総理大臣を他の職務と兼任//55歳・インフルエンザで死亡



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