真田丸 第32回 「応酬」 感想


第32回 「応酬」 

YESMEN・幸村
なんか主人公が軽薄。秀吉に対してもそうだったけど、三成に対しても気に入られることだけ、揉めないことだけ考えて接してるみたいな軽薄さが臭ってくる。
まあ上司の気分を害したら切腹するのがトレンディーな時代だからしょうがないのではあろうが、こんな上っ面だけのイエスマンが側近じゃあ三成が孤立していくのも仕方ないとしかいえない。(でも、たしなめれば三成は主人公をクビにして別のイエスマンを仕えさせるだろうからやはり滅びは運命なのか)

ワテクシダカラ
人当たりが悪く、大勢と時間を共有するのがニガテという設定の石田三成。俺もそうだから気持ちはよくわかる。ようは自分を否定されたり自分を中心に周っていない空間にいたりすることが耐えられないんだと思う。で、主人公みたいな小賢しいイエスマンだけを側に置いてどんどん孤立していく。自分を庇護してくれるトップがいればいいが、自分がトップになると失敗する典型的なタイプだね。普通こういうタイプは大人になる過程で他人ともめて嫌われてハブられたりして悩んで、だんだん自分の性格に問題があることに気づいて丸くなっていくもんだと俺は思うんだけど、(ドラマということは置いといて)三成はガキの頃に秀吉に気に入られちゃってそのままここまで来たから男 一匹で周りに嫌 われ悩むっていう経験がなかったのかもしれないな、なんて。

トラスト
北の政処様が徳川サイドの情報操作(今回は秀吉葬儀の件)で混乱して三成にちょっと確認。今回は誤解が解けたていだけど、もともと三成の性格がよくない土台もあいまって、今後だんだん距離ができていくのかな、演出上手いな、なんて思った。

家康、ブレてる?
豊臣秀吉が健在のころは「世継ぎがどうこう」とか「長くはもつまい」とか部下とノリノリで悪代官みたいなやりとりしてたのに、ちょっと前から妙にしおらしい、いい人になってない?まあでも政略結婚による勢力拡大とその弁明のしかたは悪役のそれだったし、今後秀頼への嫌がらせや釣鐘のイベントも残ってるし、また以前のタヌキ様に戻ってくれそうではあるが。

普通すぎてガッカリ
出浦昌相、普通に「大怪我で療養」だそうで。前回のまるで死んだかのような引きはなんだったの?主人公の姉上の記憶が旦那と会うことで戻ったときもそうだったけど、伏線の回収が不自然に淡白なときがあるような。これは脚本家さんの特徴?

ミーはユーとドリンクしたい
加藤清正、いい人じゃんね。「俺はおまえと飲みたいんだよ!話をしたいんだよ!」なんて言ってくれる人に出会えたなら、ムゲにするようなことは絶対にしてはいけないと俺は思う。(まあ、それで一緒に飲み始めたら、一方的に人生観語られたり人格否定されたり説教されたりの可能性もあるが)

出オチとはまさにこのことか
上杉景勝、登場初期はシブいなあ、とか思ってたけど、今回でやっと「こりゃ、またクチだけ番長だな」みたいな?キャラが理解できた。ダメだこいつ、ダメダメ男だ、っていう芸風なのね。そのシラけたがっかり感を視線だけで匂わせる直江兼継の役者さんの演技も秀逸。で、大阪の陣につながる、と。脚本お見事。


あらすじ

歴史パート:1598・秀吉の死直後の政局/朝鮮に侵攻していた兵の撤退

ドラマパート:前回、徳川家康暗殺に失敗した出浦昌相は重傷ではあるものの存命/死を隠すため秀吉の遺体は塩漬けに/主人公は石田三成の下で働くことに/五奉行五大老の合議制での政治運営開始/矢沢三十郎が大阪に、主人公に仕える/秘匿していた秀吉の死はすでに周知になっていた/徳川家康が酒宴を開き大名の囲い込みを画策、秀吉の正室も味方にひきこむ工作/徳川に対抗して石田三成も酒宴を開くが人が集まらず、そこで場を盛り上げるべき三成が逃げるように場を去り水をさす/ヒロインがキリシタンになろうと悩む/加藤清正、朝鮮侵攻から帰国、酒宴の席で石田三成と性格の不一致で軽く揉める/真田(兄)と側室の間に子供ができたことが本多忠勝に伝わるもののめでたきかなで済む/徳川家康が諸国大名と縁組。「合議なしでの縁組NG」という秀吉の遺言を破ったとして合議の場で問いただされるもひらきなおった家康に完全に呑まれた大老と奉行衆。そしてこれを機に家康を追い込もうと目論んでいた石田三成が逆に追い込まれる/石田三成徳川家康に夜討ちをかけることを決意

おべんきょう

徳川家康・・・・・・関ヶ原・東(っていうか元凶)→大阪の陣・徳川側(っていうか本人)→天下を盗って大往生
前田利家→利長・・・・・・(利家は関ヶ原前に死没)関ヶ原・東→大阪の陣・すでに死没。(前田家は東)
上杉景勝・・・・・・関ヶ原・西→降伏→大阪の陣・東
毛利輝元・・・・・・関ヶ原・西(西総大将)、部下の裏切りで戦うことなく敗戦、地方に飛ばされ隠居→大阪の陣・東に付くも裏で西に協力
宇喜田秀家・・・・関ヶ原・西→敗走するも捕縛、島流し→大阪の陣・島暮らし
関ヶ原1600年・大阪の陣1614と1615年

浅野長政・・・・・関ヶ原・東→以後家康に仕える→大阪の陣・すでに死去
石田三成・・・・・関ヶ原・西(っていうか元凶)→斬首
増田長盛・・・・・関ヶ原・西につきながら東に加担するもその働きを認められず戦後は無一文に→大阪の陣・戦にかかわらなかったものの子供が豊臣に汲みしたため切腹
前田玄似・・・・・関ヶ原・西につきながら東に加担→働きを認められ本領安堵されるも2年後に死去
長束正家・・・・・関ヶ原・西→敗走ののち自害

じんぶつ
前田利家(1538-1599):武将・大名:加賀・金沢城(石川県)
 豪族出身、幼少期より織田信長に仕える(肉体関係あり)も追放されたり許されたり(割愛)/21歳・結婚/32歳・家督を継ぐ/45歳・本能寺の変/46歳・しずがたけでは最初柴田勝家、後に豊臣秀吉につく・これにより莫大な領地が報奨として与えられ以後豊臣に仕える大大名に/62歳・病没
今回登場時点で61歳。役者さん、すでに死に体の役のせい?で秀吉と区別つかなかったよ。

前田利長(1562-1614):武将・大名:加賀・金沢城(石川県)
 織田信長に仕える前田家出身/20歳・本能寺の変/38歳・家督を継ぎ加賀へ(石川県)/39歳・関ヶ原で西軍に/53歳・病没
利家とまつ」の息子。家柄が豊臣秀吉の側近中の側近だったため、関ヶ原の後も徳川に警戒され立ち回りに苦労したものの上手く逃げ切った感じの人生

毛利輝元(1553-1625):大名:長州・萩城(山口県
 大名・毛利隆元の子として産まれる/11歳・家督を継ぐ/14歳・初陣/30歳・豊臣秀吉に攻められている最中に本能寺の変が起こるも結局豊臣配下に/46歳で五大老の1人に/48歳・関ヶ原。西軍、しかも総大将になるも参戦しないまま敗北。徳川に領地を減らされる/73歳・死没
五大老の1人。関ヶ原で徳川に負けて領地を没収されたことの恨みが幕末の毛利家の倒幕論の一因なんだそうな。

長宗我部盛親(1575-1615):大名・武将:土佐・岡豊城(高知県
 土佐国主・長宗我部元親の子として産まれる/豊臣配下として小田原攻めや朝鮮侵攻に参陣/25歳・家督を継ぐ/26歳・関ヶ原・西軍で敗北、領地を没収され浪人として貧乏暮らし/40歳・大阪の陣で豊臣からお呼びがかかり参戦、敗北、捕らえられ斬首刑
いつか大河の主役にしてほしい。逸話多し。なかでも捕らえられても次を見据えて命乞いする話はかっこいい。俺ならめんどくさいやらみっともないやらで人生を諦めるので。

細川忠興(1563-1646):武将・大名:丹後・田辺城(京都)→豊前中津城(大分)→肥後・八代城(熊本)
 将軍家の家臣・細川藤孝の子として生まれる/11歳・織田信長配下、明智光秀の与力になる/17歳・明智光秀の娘(ガラシャ)と結婚/20歳・本能寺の変明智光秀からの共闘要請を拒否/20歳・家督を継ぐ(丹後・田辺城城主に)/豊臣秀吉に仕え戦に参陣、秀吉の天下取りに貢献/36歳・秀吉死去、以後徳川家康に仕える/38歳・関ヶ原・東軍で勝利、領地加増され豊前国中津城主に/53歳・大阪の陣、徳川側/58歳・隠居/70歳・肥後国へ転封/84歳・死没
今も子孫が細川姓で政治家をやっている・なかなかに強烈な人だったらしい・嫁さんのほうが有名らしい

明石全登(??-1618):武将:備前・保木城(岡山県
 宇喜田直家の家臣・明石景親の子として産まれる/1595頃・キリスト教徒になる/1599.宇喜田騒動(内輪もめ)ののち、重役に抜擢、評価を上げる/1600.宇喜田秀家に従い西軍につき敗戦、浪人になる/キリスト教徒ということで居場所が定まらず諸国を転々とする/1614.大阪の陣・豊臣側につき敗戦、逃亡。以後消息には諸説あるらしい
関ヶ原では宮本武蔵明石全登の隊にいたらしい

長束正家(1562-1600):武将・大名:近江水口岡山城滋賀県
 出自不詳/織田信長の家臣・丹羽長秀に仕える/24歳・豊臣秀吉に仕え、事務方として活躍/34歳・近江・水口岡山城城主になる/37歳・五奉行の一人に/39歳・徳川家康暗殺を企てるもバレる・関ヶ原で西軍につき敗走、本拠地水口岡山城で自害


おまけコーナー
○2つの伏見城(京都)
 指月伏見城地震で倒壊した最初の伏見城
 木幡山伏見城:戦で焼失、のちに徳川家康によって再建したものの1619年に一国一城令が布かれた兼ね合いで廃城。今は公園になっている

 行きたいレベルD


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