西郷どん 第37回 「江戸無血開城」 感想


第37回 「江戸無血開城

◎かんそう

○「西郷、最後の頼みじゃ」

篤姫さまが西郷に、「徳川を救ってくれ」と必死の懇願。


(´A`)<篤姫さまが救いたいのは「民」ではなく「徳川」なのね。


で、結局戦争は回避のはこびとなって言った言葉が「西郷、徳川のお家を守ってくれてありがとう」。だって。


(´A`)<篤姫さま曰く「徳川家の存続以上の望みはない」、だそうで。


(´A`)<しょせんいいとこのお姫様、そんなもんだよね・・・


(´A`)<せめてもの救いは「女(篤姫)への情」では堕ちなかった西郷が「男(勝海舟)の、民衆への情」では堕ちる・っていう展開かな。




「なぜ逃げた」という西郷の問いに、徳川慶喜が答える。「戦いが激化すればイギリスとフランスが介入してくる。そうなれば最終的に日本は侵略される。だから戦うわけにいかなかった、逃げるしかなかった」。その答えに納得する西郷ですが。


(´A`)<俺は納得できん。だったら降伏したほうが確実じゃん。

(´A`)<「戦争を激化、長期化させないために逃げた」ってことらしいけど?逃げても戦争は激化・長期化するじゃんね?部下を置き去りにした理由にもなってないし。まあ降伏しなかったのは後々に交渉、政治力で挽回するつもりでいたとか徳川の面子とかっていうのでわかるけど、部下を捨てて自分だけ逃げた理由にはなってないよね?


◎今週の「命かけもす」宣言

今週の命かけもすは

(´A`)<ナシよ

(´A`)<ただ、「命かけもす」とは言わなかったものの、篤姫様は死ぬつもりだと宣言しましたな。


○その他小並感

小1・南野陽子さんの演技、上手いなあ。「なにをやっても××」と揶揄されるイケメンの大根俳優は南野陽子さんの吐血を前じて飲めばいい(僭越ながら私もご相伴あずかります)

小2・江戸無血開城のとき、勝海舟が「負け確定の徳川の交渉担当なんてやりたくないのに無理やりやらされて困ってるんだ。そうだ、俺が新政府の責任者になるからあんた徳川の交渉担当やってみない?」って言って、西郷が「いや、これは参りましたな」と言った。的なやりとりのシーンをなんかの本で読んだんだけど。今回のドラマでそのシーンあるかもと期待してたんだけどなくてガッカリ。さすがに史実じゃなかったか。

小3・大久保どん、肌がずいぶん黒くない?①今後の闇堕ちフラグ?②病気フラグ?③俺の気のせい?


◎おまけパート

---東京都.墨田区---

勝海舟生誕の地
1823(文政6)年1月30日・父方の実家男谷精一郎家に勝海舟は産まれ青年期まで墨田の地で学問や剣術の修行に励んだ//男谷家の跡地は両国公園となり、その中に「勝海舟生誕の地」の碑が立っている

勝海舟は剣術の師匠・島田虎之助に勧められ、精神修行のためこの寺で禅を学んだ

---東京都.港区---

○赤坂
成人した勝海舟蘭学を学ぶため移り住んだ

勝海舟邸跡
//赤坂氷川神社の近くにある旗本屋敷跡(そのため勝海舟は「氷川翁」とも呼ばれる)//幕府の軍艦での渡航経験を経て、幕臣として活躍したころに勝海舟が暮らしていた

//開運・厄除け・良縁の鎮守神社//951創建・1730.現在の地に遷される(現在の社殿はその際に造営されたもの)//演歌歌手の氷川きよしの名はこの神社が由来(事務所が近所だった)//

○四合稲荷(しあわせいなり)
//勝海舟が晩年命名(4つの稲荷神社を合祀したことと「幸せ」という言葉をかけたもの)//氷川神社境内にある//

○行きたいレベル・D
勝海舟っていう人間は大好き。だけどゆかりの地には全く興味ないなあ。


◎覚へ書き---1868年・主人公40歳---

○歴史パート:

江戸無血開城(○鹿児島・山口などの地方連合(のちの明治新政府)vs徳川幕府(旧政府)●in1868.東京都)
明治新政府軍と旧政府(徳川宗家)との間で行われた江戸城の新政府への引渡しおよびそれに至る一連の交渉過程
//政治の実権を巡り明治新政府と旧政府が京都で戦争、明治新政府が勝利//明治新政府軍、猛烈な勢いで旧政府の本拠地・東京に進軍//旧政府が和平交渉をもちかける。新政府はイケイケ状態で交渉せずとも武力でおしきれる流れだったが軍のトップ・西郷隆盛が交渉の提案を受け入れ、武力衝突を避けるため、6つの条件を提示→旧政府、これらの条件に対して「この条件は呑むけどすぐにはできない。あの条件はやるけどそのあとこうしてほしい。その条件はがんばるけどどうなるかわからない。」みたいな、「新政府の条件を受け入れる気がない」ともとれる返事をする→それでも新政府軍の責任者・西郷隆盛は旧政府のいいぶんを呑み、新政府の幹部らを説得、和平交渉締結となる
※全面戦争が回避・旧勢力と新勢力の消耗戦がなくなり国としての損害がでず、新政府の疲弊もなかったおかげで新政府によるその後の政権移行の段取りが比較的スムーズにいったので、この出来事は非常に大きかった

彰義隊(しょうぎたい)1868結成・解散
政争に敗れ失脚した徳川慶喜の警護を目的に結成//徳川慶喜が政界を引退、茨
に転居するも彰義隊は東京に留まり徳川慶喜復権を要求する//新政府は東京の警備の仕事を与え懐柔しようとするもうまくいかず武力鎮圧に転じる//新政府の圧倒的な戦力の前に彰義隊は一日で壊滅する(上野戦争明治新政府vs彰義隊●in1868.7.4.東京都)

○ドラマパート:
//西郷、篤姫に謁見→篤姫が懇願「自分と徳川慶喜を殺していいから徳川家を存続させてほしい」→西郷これを拒否//西郷、勝海舟と面会→勝海舟「徳川は降伏する。城も武器も返上するから徳川家の処分は寛大なものにしてほしい」→渋る西郷→勝海舟「東京の民衆を戦火で苦しめないでほしい」→逡巡する西郷、勝海舟の説得を受け入れ戦争の回避を決断//西郷、徳川慶喜と面会。西郷「なんで戦かわず逃げた」→徳川慶喜「戦いが激化すればイギリスとフランスが介入してきて日本は侵略される、だから戦うわけにいかなかった、逃げるしかなかった」→西郷、徳川慶喜の行動は日本のことを考えての行動だったと納得、徳川慶喜討伐の矛を収める//西郷、徳川幕府に代わるためにたちあげた新政府幹部たちに戦争回避の旨を報告、これにより東京は戦火を免れ徳川家は断絶を回避。//徳川幕府、新政府に江戸城をあけわたす。徳川慶喜は隠居し水戸(茨城県)に転居。西郷、篤姫に再会、件の落着について和やかに会話(●→江戸無血開城)//東京の徳川残党が武装蜂起(●→彰義隊)、東北各県も新政府に反発、武装蜂起。これを鎮圧すべく新政府も開戦を決定。山口県で徳川軍を撃退した実績をもつ兵学者・大村益次郎が東京入りし陣頭指揮をとることに//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)
大村益次郎(おおむらますじろう・1824-1869):医師・西洋学者・兵学者:山口県長州藩
//山口県の村医・村田某の長男//18歳~多種の学問を各地で学ぶ//27歳・結婚//(29歳・神奈川県に黒船来航1853)、外国の知識をもっていたツテで高待遇で県の役人になり翻訳の仕事をしたり軍艦を造ったり//(30歳・日米和親条約1854)//32歳・東京で私塾を開塾。同年中央政府でも翻訳や講義の仕事を任じられる//(
36歳・桜田門外の変1860)//39歳・山口県にもどり軍事や外国への対応の仕事に就く//40歳・山口県を討伐するために中央政府が挙兵→山口県が降参、「山口県中央政府に恭順」という方針となる(第一次長州征伐・(○中央政府vs山口県●in1864.山口県)//41歳・山口県内でクーデター、「山口県中央政府に恭順しない」という方針に変更。大村はクーデター派として山口県の船を売却するため上海に渡る(隠密行動だったためほぼ記録がなく詳細不詳)、のちに山口県の軍隊の指揮整備にあたる//42歳・再び中央政府山口県討伐のため挙兵するも山口県はこれを返りうち。大村はこの戦いで兵を指揮し大いに名をあげた(第二次長州征伐・1867)//43歳・山口県と鹿児島県が同盟、中央政府を失脚させ新政府を樹立させることで一致。大村はこれらに反対したため左遷され、のちに反省の弁を残す(→薩長同盟1866・大政奉還1867.)//44歳・新政府軍の役人として上京、中央政府徳川幕府)に勝利、近代国軍の基礎づくりを開始。徳川残党の武装蜂起を短期間で鎮圧し名をあげる(→王政復古・戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い)・江戸無血開城上野戦争明治維新1868.)←イマココ●。のちも新政府軍の指揮をとり、対立した西郷隆盛をしりめに単独で軍を指揮し政府を勝利に導いた//46歳・8人の刺客(急な改革に反発した山口県の元侍)に襲撃され重傷、2ヵ月後に死亡




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