西郷どん 第11回 「斉彬暗殺」 感想


第11回 「斉彬暗殺」

◎かんそう

○言いたいことはわかるけど・・

不幸になるとわかっていて篤姫を嫁にだす→自分の息子が死んだ夜に仕事で飲み会→島津斉彬は冷酷なのでは?というシーンからの・・

自分の命が狙われる→にもかかわらず、自分の命より国のことを優先するというシーン。

これは、「自分の命より国を優先するくらいだから他の人間のことより国を優先するのもしかたない、それほど国の未来を憂いているんだから」

っていうことを表現したかったのか?もしそうだとしたら・・


(´A`)<「国のために自分は死ねる→だから自分の命が惜しいわけじゃない→自分のためじゃない→他の人にもそおいうスタンスで向き合うがそれは決して冷酷だからではない、それだけ必死ってことだ」。ってこと?

(´A`)<理屈はわかるよ?

(´A`)<でも人ってさ、「自分の不幸には耐えられるけど自分の大切な人の不幸には耐えられない」。そういう生き物じゃないのかな?

(´A`)<「毒をもられようとも命を賭けて自分は国につくしてる。だから周りが不幸でもそれは仕方ない。」っていう意図の脚本・演出だとしたら・・・

(´A`)<ウーンどうだろ。



○命を大事にしない奴なんて大嫌いだ、死ねっ!

「自分の命なんかどうでもいい、国民のために働く」という薩摩の殿様・島津斉彬公。

(´A`)<や、心意気は立派だよ?でもね?

(´A`)<「一刻も早く国政を改革し強い国を創らなければ」といいながら「自分の暗殺の件は放置でいい」っていうのはお花畑なんじゃない?

(´A`)<例えば今夜殺されたら改革もヘチマもないんじゃんね?国の改革のためには自分の警護もちゃんとやらないと・・・

(´A`)<かえって迷惑ですわ。


◎今週の「命かけもす」宣言

(`・ω・´)<今週の西郷どんは「自分の命に代えて臥せっているお殿様を救ってほしい」と願掛けしてもすました


◎おまけパート

---東京都.目黒区---

西郷隆盛ゆかりの寺//江戸時代には徳川将軍家から庇護をうけその伽藍は「目黒御殿」と評されるほど華麗を極めた//目黒は日帰りで行き来できる距離にあったことから訪れる人が多く(???「日帰りできる距離」って、どこからの距離だよ、わかんねーよNHK!)、門前は立ち並ぶ店で賑わいをみせた//境内にある{●独鈷の滝(とっこのたき)}は、古くから水ごりの道場として利用されていた//1854年、西郷は病に倒れた島津斉彬の回復をここで祈願したと伝わっている{→●水かけ不動明王}//西郷はその後も目黒不動尊を信仰、明治に入ったあとも祈願に訪れたという//だそうで

○行きたいレベル・C
東京行くならもっと他のところ行きたいので


◎覚へ書き---1854年、主人公26歳---

○歴史パート:
将軍継嗣問題(1853-1858)
※1853に13代将軍が決まるもダメ将軍だったので周囲が後継を擁立したことで勃発-1858に14代将軍が決まり決着
//第12代将軍・徳川家慶の跡継ぎ、徳川家定は病弱で言動も定かではなかった//そこで12代将軍は茨城県の大名の子・徳川慶喜を後継にしようと考えたが周囲に反対され、「徳川家定を13代将軍にするが、もし不測の事態が起きたら徳川慶喜を後継とすること」とした(ただし公式に確定されてはいなかった)//
1853.12代将軍が死去。日本は外国にいろいろちょっかいをだされその対応を決めなければならなかったが12代将軍の後を継いだ13代将軍は更に病状を悪化させて時には廃人に近い状態となり、政務が満足に行えなかった。しかも子はなく、その後継者問題が急浮上した//この状態を憂慮した島津斉彬(←鹿児島代表)・松平慶永(←福井県代表)・徳川斉昭茨城県代表)・幕府の重役・阿部正弘らが「徳川慶喜を次期将軍に」と擁立(→一橋派)//一橋派に対して中央にコネを持つ家柄の高い勢力が「徳川家茂を次期将軍に」と擁立(→南紀派)//1858.13代将軍が重態となる//結局「南紀派・徳川家茂」が14代将軍となる(派閥間の闘争の結果南紀派が勝利・という説と、13代将軍が徳川慶喜を嫌っていたので徳川家茂を後継に指名した・という説がある)//

○ドラマパート:
//中央政府・徳川家と縁戚関係になる(→義理の娘を将軍に嫁がせる)ための工作を進める薩摩藩主・島津斉彬//それを面白く思わない中央政府重役・井伊直弼(→将軍継嗣問題・しょうぐんけいしもんだい)//島津斉彬の子供が夭折(虎寿丸・享年5歳)。にもかかわらず国政に没頭する島津斉彬//虎寿丸の夭折は薩摩藩の前の藩主・島津斉興とその妻・おゆらの呪いではないかと勘ぐる島津斉彬派の藩士たち//鹿児島県の島津斉彬派の藩士たちも「呪いではないか」と疑う。が、大久保利通島津久光(←どちらかというと呪ったほう側の人間)に正直に事情を話し善処を求める(島津久光は反感好感どちらともとれる微妙な反応)//薩摩藩主・島津斉彬福井藩主・松平慶永水戸藩主・徳川斉昭とその息子・一橋慶喜が密談。「次期将軍を一橋慶喜にする、今回薩摩の人間を徳川に嫁入りさせるのは一橋慶喜が時期将軍にふさわしいと現将軍に吹き込むため」ということを確認しあう。(但し一橋慶喜本人は嫌がる)//島津斉彬が倒れる。西郷は水ごり・護摩焚きで回復祈願すると同時に、毒かもしれないと考え島津斉彬の料理をもちだし福井藩藩士・橋本某に解析してもらう→砒素の混入があきらかになる(銀の串を刺したら銀が砒素に化学反応したので)→お面をつけた鹿児島弁の男が西郷たちの会話を盗み聞きしていた→西郷が追いかけるも逃げられる//西郷、黒幕は島津斉彬の父・島津斉興とにらみ問いただす→しかし証拠もなく勢いだけでつめよったため相手にキレられ退却//島津斉彬が西郷にキレる「ワシの命なんてどうでもいい、オマエは国のこと・国民のことを考えろ!」//(黒幕は井伊直弼という描写)//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

×長野主膳(ながのしゅぜん・1815-1862):彦根藩藩士井伊直弼家臣)・国学者:ゆかりの地??
※ドラマでは悪役・井伊直弼の手下で殺し屋の雇い主
三重県出身・戸籍で名前がある以外に出自、経歴とも25歳になるまでの一切は不明//25歳・三重県滝野村の滝野次郎左衛門宅に寓居//27歳・次郎左衛門の妹で6歳年上の女性と結婚、夫婦で京都-伊勢-美濃-尾張-三河-近江と遊歴//28歳・志賀谷村の阿原忠之進宅に寓居、ここで国史、和歌などを教授//28歳・井伊直弼宅を訪問。直弼は主膳に傾倒し、弟子となる//****.京都に行き天皇系の一族の元で働く//36歳・井伊直弼彦根藩主(滋賀県)となる→井伊直弼に招聘され藩政に携わる//44歳・13代将軍の後継者争い(一橋vs南紀)が勃発、上司・井伊直弼の意を汲み南紀派のために奔走、政争に勝利←イマココ●・将軍継嗣問題(1853-1858))//44歳・先の後継者争いで敵対した勢力や現政権に異を唱える勢力の弾圧を推進(安政の大獄.1858-1859.)//46歳・政権実質トップの井伊直弼が反政権勢力に暗殺される(1860.桜田門外の変)。以後、井伊直弼の統治する滋賀県の行政に携わるも井伊直弼の後継者らに疎まれる//48歳・44歳の頃に行った政治弾圧(安政の大獄)の罪を問われ斬首刑

徳川慶福(=徳川家茂1846-1866):第14代将軍:
紀州藩主(和歌山県三重県)・徳川斉順(さらに第12代将軍の弟)の子//4歳・紀州藩主(和歌山県三重県)の叔父が死去。その養子となり家督を継ぐ(実際は幼いうえに東京暮らしだったため部下が政権を担う。本人は一度も和歌山県三重県に行かなかった)//13歳・先代が死去のため第14代将軍となる//17歳・皇族と結婚//18歳・政務として京都にいき(将軍が天皇のいる京都に足を運ぶ=229年ぶりの異例・屈辱)、天皇に攘夷(外国に宣戦布告)を約束//20歳・皇族が徳川の行政に口を出す。これに対し自ら将軍職の辞意を朝廷に上申(このとき天皇は大いに驚き慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束したという)//21歳・第二次長州征伐で南下する道中に病に倒れそのまま死去

松平慶永(まつだいらよしなが1828-1890=松平春嶽):大名(越前福井藩藩主//福井県):福井県・福井城址
※開国・公武合体
徳川家系列の身分の高い人・徳川斉匡の8男//11歳・越前福井藩主が若年で急逝したため急遽養子となり福井藩主となる//11歳・結婚//11歳・藩政改革に努める(ホンマかいな)//12歳・保守系の家臣を罷免、改革派を登用し洋学所の設置や軍制改革を行う(ホンマかいな)//26歳・ペリー来航。最初は攘夷派だったがのちに開国派になる(→ペリー来航1853神奈川県)//14代将軍候補を擁立するも他候補を擁立する派閥に敗北(将軍継嗣問題.1853-1858))//27歳・中央政府天皇の許可なく外国と条約を締結したことに抗議するも「中央政府の城に勝手に来た罪」で強制的に隠居させられ謹慎処分をうける//33歳・政敵だった井伊直弼が暗殺される(→桜田門外の変1860)//35歳・中央政府に呼び戻される-政治工作により中央政府重役(幕府大老)となり政治改革を始める(→文久の改革1862)//36歳・尊皇攘夷派の敵対勢力・長州藩山口県)に政治活動を制限される→盟友(徳川慶喜)が敵対勢力と妥協しようとする→これに反対し職を辞し福井県に帰る//36歳・「福井藩が先頭にたって中央政府を武力鎮圧し政治改革をする」という計画をたてるも頓挫。この計画が露見し、福井県では保守層によるテロが頻発//36歳-37歳・政敵の長州藩が他藩との抗争に破れる(→8月18日の政変1863)。そして長州藩は「日本の敵」という立場にされる(→禁門の変.1864)、再び天皇のもとに召集され日本各地の有力者と新しい国の形を模索するも破談(主に徳川慶喜がやらかし)//40歳・大政奉還(1867.)//41歳・王政復古・戊辰戦争(倒幕運動には反対)・江戸無血開城明治維新(1868.)//明治維新のちの新政府では要職を歴任//43歳・政務を退く//63歳・病死






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