西郷どん 第6回 「謎の漂流者」 感想



第6回 「謎の漂流者」

◎かんそう

○ジョン万次郎さん登場。
「じつはジョン万次郎は西郷と牢で出会っていた」とかいうドラマパート、俺的にはセーフ。あとは「実際にはジョン万次郎は薩摩藩から厚遇されていた」ってことと、「ひとりで行動してたわけではなかった(仲間2人と一緒に帰国していた)」、っていうのが今回ちょとググッたらでてきてビックリしました。

(´A`)<僕はそのことをはじめて知ったので、僕はとってもうれしかったです.

○ジョン万次郎さんと一緒に帰国した仲間2人はなんでメジャーデビューできなかったのか調べた(`・ω・´)
遭難時は5人→アメリカの船に助けられる→ジョン万次郎だけアメリカに行く。(残る4人はハワイで下船)→ジョン万次郎、アメリカで長く暮らしたあと、ハワイに行く→仲間に「日本にもどろう」と誘う→その時点で1人はすでに病死、1人はハワイで結婚してたので残る2人がジョン万次郎と帰国→日本にもどったものの、ジョン万次郎以外の2人は「ハワイにいたからアメリカのことはわからない」とのことでなんの見識ももっていなかった→3人は故郷・高知県に戻される→見識のない2人はマジ使えなそうなので「高知県から出るな・漁にでるな」という条件で故郷でくらした→ジョン万次郎は幅広い見識・知識があったので中央政府に呼び出され国のために働くことになった→ジョン万次郎だけが有名になった

(´A`)<らしいです。

(´A`)<でもあの時代に通訳にも使われないとか。2人の遭難者、逆にスゴイ。

◎おまけパート


//土佐藩の城//土佐藩は幕末明治に活躍する多くの志士を輩出した//アメリカから帰国したジョン万次郎は高知城下で取り調べを受けた//

河田小龍生誕地
//蘭学に通じる画家・河田小龍の生誕地//河田某はジョン万次郎取り調べの任をうけた//河田某はジョン万次郎を自宅に寄宿させ読み書きを教えるかたわらジョン万次郎の体験記をまとめる。{→●漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)}そこでは西洋事情や進んだ技術が紹介され日本人が世界へ目を向けるきっかけをつくった

---高知県.土佐清水市.中ノ浜---
ジョン万次郎が生まれ育った漁師の町//取調べを受けたジョン万次郎はこの地で母と11年ぶりの再会を果たした(→●ジョン万次郎生家(復元))//ジョン万次郎はのちに幕府の要職に取り立てられる//ジョン万次郎が広めた西洋の知識は志士たちの心を大きく動かすこととなった//だそうで

○行きたいレベル・A
昔、行ったことがあって。行けることならまた行きたい。けど・・その時間や金があるならまだ一度も行ったことがないところに行かなくちゃってのがあるので、きっともうニ度と行くことはないだろう。(´;ω;`)悲すい


◎覚へ書き---1851年、主人公23歳---

○歴史パート:
//1851.ジョン万次郎が沖縄県に上陸。のちに鹿児島県に連行される。鹿児島県のトップ・島津斉彬は彼らを厚遇、自ら海外の情勢や文化等について質問した。斉彬の命により、ジョン万次郎が藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示。その後、薩摩藩はその情報を元に船を建造

○ドラマパート:
//相撲で藩主を投げ飛ばしてしまい投獄された西郷、牢でジョン万次郎という洋装の男と知り合う//門番がジョン万次郎を襲撃、これを返りうちにした西郷はそのままジョン万次郎を連れて脱獄、自宅に潜伏//実は西郷は「ジョン万次郎の正体を探る」という密命を藩から受け、投獄されたというていでジョン万次郎に接近したのだった//大久保利通の助力もありジョン万次郎が自分の正体をあかす「→自分は高知で漁師をしていたが遭難、アメリカの船に助けられアメリカで暮らしていたが、高知県にいる母がきがかりで命がけで日本にもどってきた」//ジョン万次郎、藩主・島津斉彬に謁見、国際情勢を大いに語りあう//西郷、島津斉彬に謁見。西郷はジョン万次郎の身辺調査を成 功させた褒美として大久保利通親子の謹慎処分を解いてくれるよう懇願、島津斉彬これを受諾//ヒロインが西郷に愛の告白「→自分は親の決めた相手と結婚するが西郷のことを慕っていた。いつかこの国を、親ではなく自分の意思で結婚相手を選べるような自由な国にしてほしい、さよなら」//ヒロイン、親の決めた相手と結婚//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

○ジョン万次郎(1827-1898):漁師-漂流-アメリカ生活-帰国-国政に関わる(通訳・教師):高知県

高知県の貧しい漁師の次男//9歳・父が死去//14歳・漁に出て遭難、アメリカの捕鯨船に救助されそのままアメリカへ//16歳・捕鯨船船長の養子となりアメリカの学校で主席となる//****学校を卒業、数年間捕鯨船員として生活//23歳・帰国を決意、金鉱で金を採掘し資金をため日本へ//24歳・沖縄県に到着、鹿児島県に送還される←イマココ●//鹿児島県のトップ・島津斉彬に厚遇され西洋の情勢や造船の知識を鹿児島県の技術者たちに教示する//****長崎県に送還され取調べられたのち高知県に送還され取調べをうける//25歳・帰郷が許され高知県で教師として雇用される//26歳・日本に黒舟が来航、中央政府が外国の情報収集のためジョン万次郎を東京に召聘(→ペリー来航in1853.神 奈川県)。東京で艦の造船から航海術まで指導する教授となると同時に英会話本の執筆洋書の翻訳、通訳など精力的に働く//27歳・結婚、同27歳・日本とアメリカの平和的な関係の構築に尽力(→日米和親条約1854)//それからも国の使節団の一員として渡米したり国の開拓調査に加わったり英語や航海術の教師をしたり//41歳・明治維新(1868.)ののち、国から英語教師になるよう任命される//43歳・国の視察団の一員としてヨーロッパへ(普仏戦争→ドイツの前身?とフランスの戦争.1870)。帰国時にアメリカの恩人と再会//50歳・西南戦争(1877)//72歳・死去

※傲ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという
※絵が不得意で外国で見聞したものを絵にしてみたものの、幼児並の絵を描くことしか出来ずにずいぶん苦労したよう。


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