風林火山 第41回 「姫の死」 感想


第回41 「姫の死」 

◎かんそう

○俺なら断る
勘助が諏訪御料人に「嫁をとり、子をつくれ。」と言われる。勘助は泣く泣く了承、諏訪御料人も勘助のいないところで泣く。
俺なら「それだけはどうかお許しください」って言うかな。(まあそしたら諏訪御料人は「ならばそなたはもう私の家臣ではありません!」とか言うだろうから結局了承せざるを得ないからドラマはそこを省いただけか)

(´A`)<「嫁だけはご勘弁を!」→「私の言うことがきけないなら腹をきりなさい!」とかなったら、無意味に最悪な流れだよね。(じゃあ嫁もらいます→死ぬのが嫌で嫁をとるって思われる//それでも嫁はとりません→無駄に切腹しなきゃならん)


○若き日の徳川家康登場 
14歳の徳川家康クンが登場。その家康、雪斎様にお酌をしてたら雪斎様が突然倒れた。家康、「誰か!誰か!」と2回声をあげるも誰もこない。

(´A`)<どうする家康!

すると家康、おもむろにしゃがみ、倒れている雪斎にささやく。「約束は果たします・・・(雪斎の意思を継いでガンバルYO・的な意味)」

そして、そして・・それだけ。

あとは何もしない。で、放置された雪斎サマ、死んじゃった。


(´A`)<家康クンあきらめんの早っ!アホなの?ねえアホなの!?


とりあえず徳川家康をだしたかっただけ?(家康が雪斎を怨んでるとかの含み演出はなかったし、史実的にも雪斎が家康に教鞭をとったっていうのはまゆつばらしいしとりあえず出しとけばいい・的なやっつけ演出だったのか?)

○雪斎のホンネ
「私は天下に平安を願っているだけです・ 私は血をみるのが嫌いなんです」
って雪斎サマは言うけど、本音はどうなんだろう。普通の視聴者は雪斎サマの表情や行動でわかるんだろうけど俺はセリフで(フッ。これで天下は今川のものじゃワイ)とか、(サルどもめ。殺しあえ殺しあえ。)みたいにはっきり演出してくれないとワカラン。
あと、「武田信玄山本勘助も私利私欲の粋をでない。あれでは御仏の加護はあるまい」って言った雪斎サマ自身が倒れたのは、御仏の加護がなかった、っていう演出なのかなあ?あと(まあ、仏さまがいるのが前提になっちゃうけど)、「私利私欲を超越すれば加護がある」っていうなら、上杉謙信には加護があって、雪斎はもう歴史の歯車に必要なくなった、だから仏様は雪斎を退場させた、みたいなことなのかなあ、なんて思った。

○その他小並感
諏訪御料人がクランクアップ。嫌いなタイプだったので最後まで感情移入できなかった。

(´A`)<顔も性格も嫌いでした。BYE-BYE☆


◎おまけパート

上杉神社{●御堂跡}
米沢城の跡に建てられた神社//上杉謙信が奉られている//上杉謙信なきあと米沢に移った上杉家は謙信の遺骸を城の中に大切に葬った//上杉謙信ゆかりの品々が数多く残っている{●色々縅腹巻(いろいろおどしはらまき)・飯綱明神 兜前立(いいづなみょうじんかぶとまえだて)・●紺緋羅紗袖替陣羽織(こんぴらしゃそでかえじんばおり)・●軍旗.毘、龍・馬上杯・琵琶「朝嵐」}//だそうで

○行きたいレベル・A
行きたい!でも上杉謙信っていうより景勝ゆかりの地だから行きたいレベルはSじゃなくてA。


◎覚へ書き

○歴史パート:
1555.第二次川中島の戦い(→△武田信玄vs上杉謙信△in1550.長野県)
勝敗はつかず仲介が入り決着・200日余にわたり対陣した・犀川の戦いとも言う
//1553.第一次川中島の戦い(△武田信玄vs上杉謙信△in1553.長野県)//1554.武田信玄上杉謙信の家臣、北条某に謀反をおこさせる。これにより上杉謙信武田信玄の対立が深まる//長野県北部の上杉謙信方の国衆が武田信玄に寝返り、上杉謙信に危機感//武田信玄上杉謙信ともに長野県北部に出陣//武田信玄側の旭日山城があるせいで上杉軍は思うように移動できず、それに対抗して城を造る(→葛山城)//戦況は膠着、両軍の兵は疲弊。そこに上杉謙信の事情(→地元の一揆対策)で収束ムード//静岡県の大名・今川義元の仲介で和睦{条件:武田信玄が奪った長野県北部の一部領地を持ち主に返す、武田信玄方の城・旭山城を破却する}//

○ドラマパート:---1555年・勘助63歳または56歳--
//諏訪御料人が重い病におかされていると知らされた勘助、諏訪御料人を見舞う。諏訪御料人「死は受け入れている、息子を頼む」//武田信玄、かねてから男になりたい・武将になりたいと言っていた諏訪御料人のために「長野と新潟、どちらを攻めればいい?意見をきかせてくれ、そのとうりにする」。と言う、諏訪御料人「長野県を制圧すべき」。と返す//一話からでてる百姓あがりの脇役・デンベーと真田どの配下の女忍者がいい感じに//勘助、諏訪御料人に「結婚して家名を残せ」と強く命令。勘助、泣く泣く承諾。(諏訪御料人、勘助が去ったのちに涙)//武田軍、諏訪御料人の献策に従い長野県の木曽という地域を包囲。しかしそこに「上杉謙信が挙兵」との報告。長野攻略を中断 、上杉謙信が陣を構えた長野県北部に行軍//戦況は膠着、勘助は和議を提案//勘助、静岡県の今川家に仲介を依頼、今川家軍師・雪斎が上杉謙信を説得。武田が重要拠点・「旭山城」を破棄するかわりに上杉謙信新潟県に撤退//静岡県に戻った雪斎、急逝。今川家に大打撃//諏訪御料人が病死。戦場で訃報を聞いた勘助、大いに取り乱す//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

×秋山信友(1527-1575):武将(武田信虎-信玄-勝頼):信濃国.大島城(長野県)
//出自不詳//****・大島城(長野県)城代として主に美濃(岐阜)・遠江(静岡)・三河(愛知)方面の軍事・外交に携わる//39歳・織田信長との同盟交渉を取り次ぐ//42歳・武田信玄、今川領の静岡県に侵攻(1568.駿河侵攻)。秋山は同盟国(徳川家康)との約束を破り徳川のぶんの領地にも侵攻、占領//46歳・武田信玄の上洛戦に参戦、秋山は岐阜方面を担当(1572.西上作戦)、敵城の降伏の条件として敵城女城主・おつやの方と結婚、城を武田傘下に//47歳・岩村城代(岐阜県)となる/同年・武田信玄死去、後継・武田勝頼に仕える//49歳・長篠の戦いで武田軍が大敗(長篠の戦い:○織田信長徳川家康vs武田勝頼●in1575.愛知県)。以降武田勢は勢いを失い秋山の城も織田軍 に包囲される(岩村城の戦い:○織田信長vs武田勝頼●in1572-1575.岐阜県)秋山は城兵の助命を条件に降伏。織田氏はこれを受諾するも約束を破棄、城兵を皆殺し、虎繁を捕縛/同年、岐阜へ連行され磔に処された(秋山の妻で織田信長の叔母だったおつやの方は逆さ磔。信長最悪・・)

◎松平元信=徳川家康(1542-1616):武将-大名-将軍:三河国.岡崎城(愛知県)・武蔵国.江戸城(東京都)・駿河国.駿府城静岡県
三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれる//6歳頃・織田家や今川家で人質として暮らす//8歳・父が死去、人質暮らしのまま家督をつぐ//14歳・元服←イマココ★//16歳・結婚//17歳・初陣//19歳・桶狭間の戦い・主人の今川が織田に敗れ、そのまま誰につくこともなく自陣に入る(桶狭間の戦い:○織田信長vs今川義元●in1560愛知県)//21歳・主人の今川を討った織田と同盟(清洲同盟1562)//27歳・武田信玄と組んで今川を攻める//31歳・(○武田信玄vs徳川家康三方ヶ原の戦いin1572.)//34歳・長篠の戦い1575.//38歳・織田信長の命令で嫡男を切腹させる(1579.信康事件)//41歳・本能寺の変、伊賀越え(本能寺の変:○明智光秀vs織田信長●in1582.京都府)//43歳・小牧・長久手の戦い1584//45歳・すでに関白になっている豊臣秀吉が妹を嫁によこしたり母親を人質によこしたりしてきて配下にしようと工作、それを受け 入れ豊臣配下に//49歳・小田原攻め1590.のちに転勤命令で静岡から東京へ移動//51-56歳・文禄の役慶長の役では肥前国.名護屋城で待機1592-1597//57歳・豊臣秀吉死去//59歳・関ヶ原・いわずもがな東軍で勝利(関ヶ原の戦い:○徳川家康vs石田三成●in1600.岐阜県)//62歳・征夷大将軍となる//74歳・豊臣家を滅ぼす(大阪夏の陣:○徳川家康vs豊臣秀頼●in1615.大阪府)//75歳・死去



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