西郷どん 第2回 「立派なお侍」 感想


第2回 「立派なお侍」

◎かんそう

○とくにナシ
つまらなかったわけではないが「七人の侍」や「木枯らし紋次郎」なんかにもあるベタなお話だったので。(もちろん泣きましたがなにか?)

○そのほか小並感
百姓の娘かわいかった(とくに声がよかった)大物になるとイイネ。

大久保利通、ドラマ演出だけでなく本当に胃が弱かったんだそうな


◎おまけパート

---鹿児島県.鹿児島市---

鶴丸城跡(鹿児島城)
1601.初代薩摩藩主・島津忠恒により築城、以後廃藩置県(1871)まで島津氏の居城だった//島津家は鎌倉時代から続く名家だった//鹿児島城は天守閣がない城で、背後の城山が翼を広げた鶴のような姿に見えることから「鶴丸城」ともよばれた//城壁や堀、橋だけが昔の面影をとどめている//石垣には西南戦争のときの銃弾が残っている//だそうで

仙巌園(せんがんえん){●望嶽楼(ぼうがくろう)→琉球国王から献上されたと伝わる 中国風のあずまや}
//島津家の別邸//桜島を築山に、錦江湾を池にみたてた大自然の借景//薩摩藩の迎賓館として多くの賓客が訪れた//だそうで

○旧集成館機械工場{●反射炉跡}
//薩摩藩11代藩主・島津斉彬の指示で建設された工場群//薩摩藩は江戸から遠く離れた地にありながら日本の近代化をけん引した//島津家は明治維新の中心的役割を担った//だそうで

○行きたいレベル・B
行ったことがあるので行きたいレベルは低いが今の知識でもう一度いけるならイイナ・とは思う。


◎覚へ書き
○歴史パート:~主人公18歳(1846)~
とくにナシ

○ドラマパート:~主人公18歳(1846)~
//前回から6年後・西郷18歳、下級役人として働いていた(農政・税の徴収)//農家の作物を見て回る西郷、不作で苦しむ農民、「税の徴収の見積もりを甘くして」と賄賂を渡す、上司がこれを受け取り驚く西郷//農家の娘が借金のカタに連れていかれそうになり西郷ありあわせの身銭でとりあえず猶予をもらう//西郷の家も貧乏なのに他人に金を無心してしまったので親に怒られる//大久保利通がいいところに就職、地区のみんなでお祝い(成長したヒロイン・糸も登場)//鹿児島の有事を憂う島津斉彬が軍事演習を父(藩主・斉興)に進言するも却下される。さらに「鹿児島が負担すべき国の沿岸警備施設に不備がある」と指摘、父を完全に怒らせ家督は譲らないと言われる。斉彬、 中央政府にこれを報告、父を引退させ自分に家督がくるようにもっていく決断をし東京へ///西郷、あまりに厳しい税の徴収を見かね偉い人に直訴、「なら自分で田畑を測量して適性な税の数値を出してみろ」と言われ測量に//西郷、測量で農民が不正をしていることを知ってしまう(台帳にない田畑があった)//「百姓は苦しんでいる、でも不正は不正」悩む西郷、島津斉彬に窮状を直訴することに//「斉彬が東京に行く」という情報を得た西郷、直訴状を携え斉彬の一行を追いかけるもヒロインに「大変だ、百姓の娘が借金のカタに連れていかれそうだ」と言われ直訴を断念、百姓のもとへ//しかし金がないので結局百姓の娘は連れていかれ、直訴状も渡せず。己の無力さに泣き崩れる西郷//つづく

 
◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

大久保利通(1830-1878):武士-政治家:薩摩国.(鹿児島県)
薩摩藩下級藩士・大久保某の長男。幼いころから西郷らとともに過ごす//16歳・就職(薩摩藩の役人)←イマココ//20歳・藩の家督継承問題に加わっていた父に連座して謹慎処分(→1848-50.お由羅騒動)、無職となり困窮した生活を送る//23歳・処分をとかれ復職。(神奈川県では”ペリー来航.1853”)、藩主が病死、代替わりの中順調に昇進//28歳・(中央では安政の大獄.→1858)//32歳・神奈川県で薩摩藩の一行とイギリス人が刃傷沙汰となり大騒ぎ(1862.生麦事件//翌年にはイギリスと鹿児島が戦争→1863.薩英戦争※結果は痛み分け)//34歳・禁門の変(→1864.西郷が薩摩軍を率い長州軍に勝利)同年第一次長州征伐//36歳・薩長同盟(→1866.)//37歳・大政奉還(→1867.)//38歳・戊辰戦争・江戸 無血開城明治新政府樹立、年号が明治に(→1868)//41歳・西洋諸国に外遊//43歳・政策の違いから対立した西郷らを失脚させる(→1873.明治6年政変)。同年、内務省を設置、自ら内務卿となり「富国強兵」を掲げ、学制・地租改正・徴兵令・殖産興業政策などを実地//47歳・西南戦争(→1877)で勝利。同年、内国勧業博覧会を開催//48歳・暗殺される(西南戦争で負けた側の残党による)
※金銭に潔白で、国のために個人で借金、死んだときもそうとうな借金があった。が誰も家族に返済をせまらなかった、国はなんやかんやで金を集め家族を養った(ええ話や)

×調所広郷(ずしょひろさと・1776-1849):家老(島津重豪-斉宣-斉興):薩摩国.(鹿児島県)
薩摩藩士・川崎某の子として生まれる//12歳・薩摩藩士・調所某の養子となり茶道職として出仕//22歳・江戸へ出府し、前の薩摩藩主に才能を見出されて登用され、後に藩主・島津斉興に仕えガンガン昇進。当時、薩摩藩は500万両の借金があって破綻寸前だった、これに対して広郷は{行政改革農政改革・商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いに・琉球を通じて清と密貿易を行なう・砂糖の専売制を行う・商品作物の開発・など財政改革を行い250万両の蓄えが出来る程にまで財政を回復させた//72歳・急死。薩摩藩の後継者問題が勃発、後継を反対された島津斉彬薩摩藩の不正行為を中央に報告、中央に不正を咎められた現薩摩藩の罪をかぶって自殺したともいわれている(→1848-50.お由羅騒動

×有村俊斎(-のちの海江田信義・1832-1906):武士-政治家:
薩摩藩士・有村某の次男//11歳・出仕、お茶係として薩摩藩主・島津某に仕える//17歳・薩摩藩家督争いにまきこまれ失職(→1848-50.お由羅騒動)//19歳・家督争いが収束、復職。西郷や大久保らと藩内組織「精忠組」を結成//20歳・東京で多くの勤皇思想家とであう//21歳・神奈川にペリー来航(→1853)。翌年には日米和親条約締結(→1854)//26歳・安政の大獄.西郷らとともに鹿児島に逃走(→1858)。帰国後、脱藩し要人暗殺する計画をたてるも藩主に諭され断念//28歳・弟が要人を暗殺し自刃(1860.桜田門外の変)、もう1人の弟も関係者として自刃//29歳・結婚//30歳・中央政府に圧力をかけるため上京する藩主に従う(→1862.文久の改革)、目的を果たした帰りに神奈川でイギリス人とトラブル、殺す(→1862.生麦事件)//31歳・生麦事件が発端でイギリスの軍艦と戦争(→1863.薩英戦争※痛みわけ)//32歳・禁門の変(○薩摩vs長州●in1864)//34歳・薩長同盟(→1866.)//35歳・大政奉還(→1867.)//36歳・王政復古・戊辰戦争戊辰戦争では友軍の山口県民と非情に険悪となり問題に、謹慎処分をうける)・江戸 無血開城明治新政府樹立、年号が明治に(→1868)//38歳・官職に復職、奈良県知事となるも翌年解任、鹿児島に戻るも鹿児島のトップに中央とのパイプ役を命じられ活躍//41歳・西郷らが中央の行政に反発・離職(→1873.明治6年政変)//45歳・西南戦争西郷隆盛が自刃(→1877.西南戦争)//46歳・大久保利通が暗殺される//49歳・元老院議官に→のちヨーロッパに遊学→のち貴族院議員→のち枢密顧問官に、などよくわからんがトントンの人生?//75歳・死去

×村田新八(1836-1877):武士-政治家:鹿児島県
//高橋某の第3子としてうまれ、のちに村田某の養子に。幼いころから西郷と行動をともに//17歳・神奈川にペリー来航(→1853)。翌年には日米和親条約締結(→1854)//22歳・中央政府が政治弾圧(1858.安政の大獄)//26歳・テロの嫌疑をかけられ流罪(この間に神奈川県では西郷の主君一行とイギリス人が刃傷沙汰となり大騒ぎ(1862.生麦事件)、翌年にはイギリスと鹿児島が戦争(1863.薩英戦争※結果は痛み分け)//28歳・赦免され鹿児島にもどる。同年禁門の変.(○薩摩vs長州●in1864)//30歳・薩長同盟(→1866.)//31歳・大政奉還(→1867.)//32歳・戊辰戦争(大いに活躍)・江戸 無血開城明治新政府樹立、年号が明治に(→1868)//35歳・日本のトップたちとともに欧米を視察//38歳・帰国。”37歳・明治6年政変in1873”で西郷が中央と衝突、鹿児島に帰ったと聞いて自分も辞職、鹿児島に帰り私学校を創立//41歳・西南戦争(→1877)で敗戦、自刃
中央政府の中枢にいたくせに西郷を追いかけて辞職、帰郷とか泣かす。大久保と同じものをみてきたのに大久保と逆の生き方を選んだ、そのあたりの本人のみが知る真実って、どんなものだったんだろうか・・・

×有馬新七(1825-1862)//武士(島津斉彬-忠義)//薩摩藩(鹿児島県)
鹿児島県の下級武士・坂木某の子//父が上級武士・有馬某の養子となり自分も上級武士に//叔父が剣の達人で、幼少期から剣技を伝授された//18歳・東京で学問を学ぶ//28歳・神奈川にペリー来航(→1853)。翌年には日米和親条約締結(→1854)//32歳・薩摩藩邸学問所教授に就任、のちに昇進/// 33歳・中央で政治弾圧政策(安政の大獄in1858)35歳・中央要人の暗殺を計画するも鹿児島政府に却下され手をひく(1860.桜田門外の変)//35歳・鹿児島の発展に尽力しながら中央政府転覆の機会をうかがう//37歳・反政府勢力として会合中、鹿児島県の役人によって粛清された(寺田屋事件in1862←坂本龍馬1866.の事件とは別もの)


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