西郷どん 第1回 「薩摩のやっせんぼ」 感想


第1回 「薩摩のやっせんぼ」

◎かんそう

(´A`)<まずは子役回だったので感想はちょっとだけ。

○株式市場の電光掲示
島津斉彬の俳優さん、「不倫」のイメージが強すぎて・・なんか良い事言ってドヤ顔してる時も、株式市場の電光掲示板みたいなカンジで「・・不倫・・・不倫・・・不倫・・・」ってずーと頭に流れて話に集中できなかった。

(´A`)<斎藤由貴は降板で正解だったと思う


○俺はアホなので
ヤフーの記事で「史実と違う演出(斉彬が鹿児島にいるのは史実と違う・実は影武者を東京においてきた)のとき、わざわざ説明セリフいらない」って書いてあったけど、俺はいると思うし入れてほしい。直虎くらいクソファンタジーだと辻褄あわせの説明セリフが長くなってしまうが、今回の「影武者」っていうくらいの短いセリフで辻褄あうなら入れたほうがいいに決まってるじゃんって思うんだけど、世間様はそうじゃないのか?


◎おまけパート

---鹿児島県.鹿児島市---

西郷隆盛生誕地{●大久保利通銅像・}
鹿児島市街地を流れる甲突川のそば、下鍛冶屋町で西郷は産まれた//この辺りは下級武士たちが暮らしていた//幕末から明治にかけて活躍する多くの偉人がこの地区から輩出された//だそうで

---鹿児島県.南さつま市---

○竹田神社
島津家中興の祖.島津忠良の墓がある//だそうで

○行きたいレベル・D
鹿児島はニ回行ったのでその金と時間があるなら九州のほかの県に行きたいかな。


(´A`)<もちろん金と時間がムゲンにあるなら何回も鹿児島行きたいけど


◎覚へ書き

○歴史パート:
//アヘン戦争(○イギリスvs中国●in1840-1842.中国)

○ドラマパート:(1840・主人公12歳)
~プロローグ・1898.西郷隆盛の死去から21年後、銅像が建つ。西郷の妻はその銅像を見て「こんなの西郷じゃない」と言い放つ~//1840.西郷隆盛13歳・地区ごとに分かれた学校で勉強・剣術の修行したり他所の地区の子らとケンカしたり//ある日洋菓子を盗みに大名・島津氏の別邸に忍び入ろうとするも見つかって逃げる//たまたま砲術の試験をしていた島津斉彬(鹿児島の大名・島津某の嫡男)と遭遇、カステラをもらう//島津斉彬は本来人質として中央政府の敷地内(東京)にいなければならない・しかし秘密裏に勝手に鹿児島にもどってきていた(鹿児島の軍事力強化のため)・それを理解できず快くおもっていない島津斉彬の父、斉彬を慕う弟、弟をそそのかし家督を継が せたい義母(弟の実母)//地元の祭り、地区ごとに別れてマラソン妙円寺詣り)で優勝、そこで再び島津斉彬にあう//「強くなって弱いものを守りたい・島津斉彬の家臣になりたい」剣術の修行に励む//マラソンで負けて逆恨みした子供と喧嘩、刃傷沙汰になりニ度と剣を持てなくなる。しかも相手のほうが身分が上だったので被害にあったうえに謝罪という理不尽なめに)//「強くなりたい」という夢が壊された西郷が森で泣いてたら狩りにきてた島津斉彬と偶然であう、「刀が強い時代はじき終わる、人民のことを思える人間になれ、それがこれからの強さだ」と言われる//西郷、立ち直る//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

西郷隆盛(1828-1877):武士-軍人-政治家:鹿児島県
鹿児島県の下級武士・西郷某の長男//←イマココ(12歳)→//16歳・薩摩藩の下級役人になる//20歳・所属する薩摩藩家督争いでもめる(→.お由羅騒動.1848-50in鹿児島県)//24歳・結婚するも祖父・父・母が同年に相次いで死去。神奈川にペリー来航(→1853)。翌年には日米和親条約締結(→1854)//26歳-29歳・主君の東京赴任に付き従い東京へ。主君の使者として活発に政治活動をおこなう(27歳・鹿児島の妻が実家に戻され事実上離婚)//30歳・主君・島津斉彬が死去、殉死しようとするも止められる→死んだ主君の政策(尊王攘夷)実現のため奔走するも次の主君はその政策に理解を示さず、さらに中央政府の弾圧もあり投身自殺を図る→周囲に救助され一命をとりとめるも中央政府の目をのがれるためそのまま死んだことにして離島で暮らすことに//31歳・離 島で再婚、子供もできる(中央では安政の大獄.→1858)//33歳・鹿児島の政策方針が変わり西郷が必要となり翌年鹿児島の政界に復活するも鹿児島行政トップの不評を買い島流しに。(このとき神奈川県では西郷の主君一行とイギリス人が刃傷沙汰となり大騒ぎ→1862.生麦事件、翌年にはイギリスと鹿児島が戦争→1863.薩英戦争※結果は痛み分け)//36歳・鹿児島県の目論む政策運営にどうしても必要な人物ということで流罪を解かれる。同年禁門の変(→1864.西郷が薩摩軍を率い長州軍に勝利)同年第一次長州征伐・山口県長州藩を叩き潰す的なノリに反対、武力鎮圧ではなく数人の代表の自害で済ませさせる//37歳・再再婚//38歳・薩長同盟(→1866.)//39歳・大政奉還(→1867.)//40歳・戊辰戦争・江戸無血開城明治新政府樹立、年号が明治に(→1868)、のちに西 郷は中央政府と距離を置き鹿児島に戻るも中央政府の要請で国政に携わる//43歳・日本のトップが欧米視察で留守中の政府を任される//45歳・トップ政治家たちとの政策の違いにより辞職、鹿児島にもどる(→1873.明治6年政変)//46歳・私学校設立//49歳・西南戦争(→1877)で敗戦、自刃

島津斉彬(しまづなりあきら・1809-1858):大名(薩摩藩藩主):鹿児島城(鹿児島県)
鹿児島の大名・島津某の嫡男//←人質として中央政府監視下で暮らす母が東京で出産//←イマココ・31歳・→//42歳・西洋通の斉彬が周囲の信用を得られず「家督は異母弟に」という派閥ができてもめる(→.お由羅騒動.1848-50in鹿児島県)後・家督を継ぐ。早速西洋式の多くの事業を起こし成功させる(集成館事業)。//44歳・神奈川県に黒船来航。(→1853.ペリー来航)斉彬は中央政府の行政にも積極的に口出しする。//49歳・そんなこんなで中央と揉め、中央を威嚇するため鹿児島の兵隊を率い上洛しようとしたところ病死。(毒殺とも)

 ×西郷糸(1843-1922)//西郷隆盛の3人目の妻//
ちなみに再婚。(西郷隆盛は再再婚)//享年79。

×西郷従道(じゅうどう・つぐみち・1843-1902)//武士-軍人-政治家//鹿児島県
西郷隆盛の弟。鹿児島県の大名、島津某に仕える茶坊主になる//←イマココ・3歳・→//18歳・還俗、政治活動に没頭、京都でクーデターを目論むも捕縛、年少者のため謹慎処分(→1862.寺田屋事件)//20歳・薩英戦争で決死隊に志願(→1863.薩英戦争)//25歳・鳥羽・伏見の戦いに参戦、各地を転戦(→1868.鳥羽・伏見の戦い)//26歳・軍制視察のため渡欧//兄・西郷隆盛が政策の違いから政府から離脱(→1873.明治6年政変)するも従道は中央に留まる//35歳・西南戦争。中央で留守番(→1877.西南戦争)//43歳・天津条約締結のため中国へ(→1885.天津条約)//51歳・日清戦争(→1894-1895)//59歳・病死

×島津斉興(しまづなりおき1791-1859)//大名(薩摩藩)//鹿児島城(鹿児島県)
鹿児島の大名・島津某の嫡男。人質として中央政府監視下で暮らす母が東京で出産//18歳・家督継承、薩摩藩大名になるも実質の権力は引退した先代がもったまま//42歳・先代が死去し実権を握ると藩政改革に着手、借金減など効果をあげるも方法が違法だったため(密売)中央に咎められる//58歳・跡継ぎを嫡男に譲ることを渋り揉める(→.お由羅騒動.1848-50in鹿児島県)2年後、外部の調停で引退、家督は嫡男に//67歳・その嫡男が死去、家督は孫にいったが実権をとりもどし、先進的な嫡男の部下を粛清、行政を停滞させる//67歳・死去

×島津久光(1817-1887)//薩摩藩重臣(島津)-政治家//鹿児島城(鹿児島県)
鹿児島の大名・島津某の側室の子//8歳・婚姻//11歳・元服//←イマココ・23歳・→//32歳・薩摩藩の跡継ぎを嫡男と争う(→.お由羅騒動.1848-50in鹿児島県)2年後、外部の調停で引退、結局家督は嫡男に(ただし担がれた側面があるのでお咎めはナシ)//41歳・その嫡男が死去、家督が久光の息子に行くも実権は久光の父がもつ//42歳・その父が死去、若い藩主の父として藩の実権を掌握。幕府に批判的な思想で鹿児島の下級武士グループを重用したが西郷のことは毛嫌いしていたらしい//45歳・幕府の政治運営の進路変更をうながすため挙兵し京都へ行き朝廷に圧力→朝廷のお墨付きを得て東京に行き幕府に人事変更などをうながす(→1862.文久の改革)//東京で目的を果たし帰国中にイギリス人とトラブル、殺す(→1862.生麦事件)//46歳・生麦事件が発端でイギリスの軍艦と戦争(→1863.薩英戦争)//47歳・禁門の変薩長同盟(→1864)//50歳・今後の国政について徳川将軍・有力大名らと会議するも方向性の違いを痛感、徳川政権を終わらせる決意を固める//51歳・王政復古・戊辰戦争明治維新(→1868.)//51歳~・新政府のゴリ押し改革に不満、鹿児島県の改革派とも対立//54歳・廃藩置県(→1871.)//55歳・政治家として東京で生活(実質の権力はない状態)//59歳・隠居、鹿児島にもどる//同59・廃刀令(→1876.)、生涯従わなかった//60歳・西南戦争。政府にも西郷にもつかない中立を宣言(→1877)//70歳・死去

×お由羅の方(1795-1866)//鹿児島県の大名・島津某の側室//鹿児島県
島津久光の母//54歳・後継問題で実子と他の女の息子が争うも実子敗北(→.お由羅騒動.1848-50in鹿児島県)//63歳・孫が薩摩藩主に//71歳・死去
※ひまごは昭和天皇の妻

×赤山 靭負(あかやまゆきえ1823-1850)//薩摩藩重臣島津斉興)//鹿児島県
//鹿児島県の大名・島津家の分家の子//11歳・元服//←イマココ・17歳・→//18歳・小姓となり順調に出世//27歳・主君の跡継ぎ問題で当主に睨まれ切腹(→.お由羅騒動.1849in鹿児島県)



↓今回は子役だったので詳細は次回以降に先送る
×大山綱良(初代鹿児島県令)
×村田新八(宮内大丞)
×海江田信義(枢密顧問官)
大久保利通(初代内務卿)