おんな城主 直虎 第45回 「魔王のいけにえ」 感想


第45回 「魔王のいけにえ」

◎かんそう

○コナンかっ!
たまたま友達の家を訪ねたその日その時。たまたま徳川家康もそこにきてお家騒動の現場に居合わせる直虎。さすが主人公。もってますな。

○「誰かがみてる」「わかってくれる」「最後はむくわれる」
いい人・徳川信虎康くん。自分のことより相手の立場を尊重、「ああだから」「こうだから」「だから自分が折れるのは仕方ないことだ」そうやって自分が折れることに理由をつけ、譲って譲って譲って。そんな信康くんの心配りに相手が最終的に気づいて、「信康くん、今まですまなかった。信康くんみたいな立派な人は他にいない、今までの発言はすべて取り消す!!」なんて展開にはもちろんならない。大河ドラマじゃなかったらあるいはそんなお花畑展開もあったかもしれないが。

信康くん、最後までイイ子ちゃん、死ぬまで都合のイイ子ちゃんなんだろうな。でも、もし死ぬときになって、「ワタシはあなたたちの犠牲になって嫌嫌死にます、ものすごい無念です!ホント、あなたたち最悪です!ああ、死にたく ない死に たくない死にたくない死にたくないドチクショー!!!!!!!!!」みたいな展開だったら感動するんだがまあ無理だろうなあ。また少女マンガみたいなキレイゴト展開になると思うとウンザリだわ。

○その信康クンの言いまわし
「私のために徳川(浜松)と徳川(岡崎)が憎みあい争ったら、真の敵の思うツボだぞ!」っていうシーン・よかった。信康の役者さんがよかったのか役がよかったのか判断つかないが、とにかくよかった。(っていうか信康公のシーンは基本全部いい。演技・役者さんのせいなのか?なんでだろ。)

○幼名
徳川家康の母が徳川家康に「そなたの息子を殺すしかない。一族のため、家臣領民のため」と説得。うなだれてこれを了承する徳川家康に、母が幼名で「竹千代・・」と呟くのですが。

ここ、あんまり響かなかった。残念。大河ドラマ武田信玄でも(北条氏の「よい子じゃ」)、風林火山でも(板垣信方の「若ぁ・・若・・ぁ」)、似たようなシーンがあって。それを思い出してしまった。でもこのシーンもたぶんよかった。人によっては響いたのでは。

○その他小並感

小1:氏真なんて役にたつのか?
織田家の横暴に立ち向かう?べく、今川氏真公に助勢を求めた徳川家康ですが・・
「眠れる獅子・今川氏真が目覚めた!」みたいな演出?だったけど、今の氏真公にいったい何ができるんだろう。史実では今、公は徳川家臣なんでしょ?家柄やコネを駆使し圧力をかける?

(´A`)<脚本家さんのお手並み拝見ですな

○和尚様よかった
もめごとを避けるために、信康公の嫁探しをしない直虎。そんな直虎をじとーっと見つめ「おまえ冷たい奴だな。」的なことを言う和尚様。昔は「やってみなくちゃわからない・明日には相手が死んでるかもしれないからあきらめない」みたいな和尚様の理想論をホイホイ信じていたが今は現実を見極め夢物語を見なくなった直虎にご不満?俺的には直虎も和尚様もどっちも嫌い。ドラマとはいえこいつらとはあわない。


◎おまけパート

---愛知県.岡崎市---

岡崎城{●東照公えな塚}
//1543.徳川家康の母・於大の方はこの城で家康を出産した//城内にはへその緒などをおさめた塚(●東照公えな塚)が残されている//

○大泉寺
//於大の方岡崎城の鬼門に建立し家康の武運長久を祈ったと伝わっている
---愛知県.知多郡.阿久比町(あぐいちょう)---
1547.於大の方が愛知県の武将・久松俊勝と再婚し、移り住んだ町(1544に於大の方の実家が於大の方の嫁ぎ先と敵対し於大の方は離縁され実家に戻っていた)

○洞雲院(●血書阿弥陀経
//久松家(於大の方の再婚先)の菩提寺//家康の無事を願い、自らの血を薄めて行った写経が残されている(●血書阿弥陀経)//於大は人質となった家康に衣服などを送り、音信を絶やさなかったと言う

○坂部城跡     
久松家の居城跡//1560.桶狭間に向かう家康は、母に一目会おうとここを訪れ、およそ15年ぶりの再会を果たした//

○行きたいレベル・D
愛知県までいけるなら他にみたいものがあるので


◎覚へ書き

○歴史パート:
1576.安土城築城(織田信長の城・滋賀県

○ドラマパート:
//前回、徳川家康を暗殺しようとしたスパイに気づかなかったとして罰を言い渡される信康(徳川家康の息子)と家臣一同。厳しい処罰に家臣一同はいきりたつも信康は冷静に家臣たちをなだめる「徳川家康様をみかえせるように頑張ろうエイエイオー」//信康と家臣、頑張って徳川家康のために敵と戦う//徳川家康の側室が出産(→秀忠)、なんとなく徳川家康と上手くいってない空気を感じている信康の母は(秀忠に徳川家の家督を最終的にはとられてしまうのでは)という危機感から信康が男子を産めるよう側室を段取り//織田信長、男子後継がおらずあせる徳川信康に「跡継ぎができなくて立場的に不安だろうから徳川家康と同じ地位を天皇からもらってきてあげる」と提案 するも信康これを拒否 (父、徳川家康と同じ地位になれば徳川家康・その家臣にニラマれ関係が悪くなる・それで内紛でもおこれば徳川家の勢力が弱まる・という織田信長の狙いを信康はみすかす)→提案を拒否された織田信長、信康が敵と内通しているといいがかりをつけ「信康を処刑しろ」と徳川家康に命令(直接徳川家の勢力を削ぐ手段にでる)//徳川家康は、「重要拠点を息子(信康)に譲り自分も拠点を移すことで織田に目をつけられている状況から脱却すると同時に息子(信康)家臣の不満を払拭しようと計画」していたが、その矢先に「息子(信康)を殺せ」と織田信長から命令され窮する(圧倒的戦力差の織田に逆らうか息子を殺すか)//徳川家康の母親が徳川家康を説得「自分の兄も織田信長にいいがかりをつけられてあ んたらに殺された。理不尽だ。でもこれが武家の運命だ。だから自分の息子だけは例外というのは通用しない」これを聞いて徳川家康が信康の処分を決断//信康の母から「嫁候補はいないか」と手紙をもらった直虎、「嫁候補はいないがせめて子宝祈願を」と信康の城を訪問//そこに徳川家康が直参、「徳川信康をスパイの罪で死刑にする」→理不尽だとイキリたつ信康家臣、しかし信康「ここで我々徳川どうしで争ったら本当の敵のおもうつぼだ、自分は大丈夫、こらえろ」と説得//徳川家康の密使が今川氏真に今回の件を回避するための協力を要請、氏真これを快諾//つづく


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

×平岩親吉(ちかよし・1542-1612):武将・大名(徳川家康-義直):甲斐.甲府城山梨県前橋藩藩主(グンマー)-尾張犬山藩藩主(愛知県)
松平広忠の家臣・平岩親重の次男として生まれる//6歳・今川家の人質として静岡入りした徳川家康に付き人として同行//17歳・徳川家康とともに初陣//多くの戦争で活躍、徳川家康に信頼され徳川家康の嫡男・信康の守役になる//35歳・織田信長の命令で徳川家康の母の叔父とその息子を誅殺//38歳・信康切腹事件。自らの首でことを収めるよう求めるもかなわず。信康切腹後責任を感じ蟄居謹慎(但し信康切腹の経緯は諸説あり)、のちに徳川家康の家臣に復帰←今ここ//42歳・徳川家康山梨県の武田領を制圧、家康代理として山梨県の領国を経営//49歳・小田原征伐で戦功をあげ、のちの徳川家康の関東移封にともない前橋33000石を与えら れる(○豊臣秀吉vs北条氏政●in1590.神奈川県)//60歳・再び山 梨県に入る//62歳・徳川家康の9男・義直(3歳)の守役として山梨県の領国を代理経営//66歳・尾張藩藩主となった徳川義直(7歳)に家老として従い愛知県に入り行政を代行、同時に犬山藩藩主として123000石を領す//70歳・死去
※徳川16神将。けっこうな逸話があるがどれも武勇ものではないのがひととなりをあらわしてる?
逸話1・徳川家康重臣4人に、豊臣秀吉からおこづかいとして大金が届いた。が、あるものは黙ってうけとり、あるものはうけとった後徳川家康に相談した。しかし平岩某だけははじめから受け取らなかった
逸話2・平岩某の弟が目下の者と喧嘩、負傷。当時宿老の平岩某は「弟は目下に喧嘩で怪我させられる程度の無能な人間だ、比べて相手のほうは普段からよく働いている」といって弟をクビに、相手のほうは積極的に仕事を与えた。(相手は後に超出世→榊原康政
逸話3・政敵(豊臣秀頼)に毒饅頭を食べさせるために自分も毒入りの饅頭を食べてみせた(あくまで逸話)

徳川秀忠(1579-1632):将軍・武将(徳川家康):江戸城(東京)
徳川家康の3男として産まれる。同年、徳川家康嫡男・信康が切腹←今ここ//12歳・小田原征伐:人質として豊臣領に(○豊臣秀吉vs北条氏政●in1590.神奈川県)//17歳・再婚(江)//22歳・関ヶ原の戦い:通過点の戦いでてこずり予定日までに目的地につけず(通過点・上田城の戦い/○真田昌幸vs徳川秀忠●in1600.長野県)(関ヶ原の戦い/○徳川家康vs石田三成●in1600.岐阜県)////27歳・父・徳川家康の跡を継ぎ将軍となり、徳川家康と秀忠の2元政治体制で国政をとる//37歳・大阪の陣:徳川総大将として出陣//38歳・徳川家康死去。自身の側近や身内を組閣し足元を固める//45歳・隠居。嫡男に将軍職を譲り2元政治体制をしく//54歳・病没
※第二代征夷大将軍なのにウィキのページがけっこうショボくてびっくり。大きな戦いには出てるし戦国武将ばりとまではいかなくてももう少し逸話があると思ってたんだが・・


明智光秀(1528-1582):武将・大名(斎藤道三-朝倉義景-足利義昭-織田信長):近江国.坂本城(滋賀・45)丹波国:(兵庫・46)
出生不詳(諸説あり)、岐阜の大名斎藤道三に仕える//29歳・長良川の戦い:主君斎藤某が息子に攻められ一族が離散、のちに福井県の大名・朝倉義景に10年仕える(この頃、内乱で都落ち中の足利義昭が朝倉某を頼ったときに明智と知り合う)//41歳・「足利義昭のために働け」というメッセージを携え足利義昭の使者として織田信長のもとに行く(織田信長の妻と明智光秀は血縁だったため)//足利義昭織田信長・両属の家臣となる//42歳・足利義昭織田信長らとともに京都入り、京都の政務を行うメンバーに//43歳・金ヶ崎の戦い(○浅井朝倉連合vs織田徳川連合●in1570.福井県)・志賀の陣(△織田徳川連合vs浅井朝倉連合△in1570.滋賀県)などに参戦//44歳・比叡山 焼き討ち:中心実行部隊として武功をあげ滋賀県に約5万石を賜る(○織田信長vs延暦寺山門衆●in1571.滋賀県)//46歳・足利義昭が反織田信長をか かげ挙兵、明智光秀織田信長の家臣として参戦//48歳・高屋城の戦い(○織田信長vs三好康長・石山本願寺●in1575.県)・長篠の戦い(○織田信長徳川家康vs武田勝頼●in1575.愛知県県)・越前一向一揆(○織田信長vs越前一揆衆●in1575.福井・岐阜県)に参戦//丹波国(兵庫・大阪・京都らの一部をそれぞれ含む地域)の制圧を任されるも失敗、敗走//49歳・天王寺の戦い(○織田信長vs石山本願寺雑賀衆●in1576.大阪府)://50歳・第一次雑賀攻め(○織田信長vs雑賀衆●in1577.和歌山県)・信貴城の戦い(○織田信長vs松永久秀●in1577.奈良県)・丹波国制圧再開(兵庫・大阪・京都らの一部をそれぞれ含む地域)//51歳・神吉城・かんきじょう・攻め(○豊臣秀吉織田信長配下)vs神吉頼 定●in1578.兵庫県)・有岡城の戦い(○織田信長vs荒木村重●in1578-1579.兵庫県)に参加//52歳・丹波国攻めが終了・丹波国支配下に。翌年、その功績で丹波国29万石を賜る←今このへん//55歳・本能寺の変・主君織田信長を自害に追い込む(○明智光秀vs織田信長●in1582.京都府)、//55歳・山崎の戦い中国大返し豊臣秀吉に敗れ死去(落ち武者狩りに竹槍で刺され深手を負い自害)(○豊臣秀吉vs明智光秀●in1582大阪・兵庫.京都)
※説明不要の謀反界の有名人。マゾ説あり。(ないか。)当時謀反は日常的に行われていたので明智は今ほど悪く言われていなかったらしい。「明智=悪人」というのは謀反を警戒した徳川幕府が「謀反=悪」という価値観を臣下、世の中に植え付けるめに行った洗脳教育の結果、と誰かが言ってた。

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