おんな城主 直虎 第37回 「武田が来たりて火を放つ」 感想


第37回 「武田が来たりて火を放つ」

◎かんそう

○どんだけ自分ラブやねん

龍雲丸と同棲しているオトワ。ある日龍雲丸に「大阪で働かないか?」と、共通の知人から連絡がくる。龍雲丸は悩む。同棲しているオトワの生まれ故郷・静岡から大阪まではあまりに遠いから。そしたらオトワが言う。「いいんじゃない?龍雲丸クンにむいてると思う!」

(´A`)<は?ですわ。

「行かないよね?」とか、「自分もついて行く」っていうならわかる。
でもオトワは「よいのではないか?カシラの性分に合うたよい話じゃと思うぞ(原文まま)」としか言わない。二人の関係について触れず「行けば?」と言うだけ。

(´A`)<あ?「つまり別れたいってこと?」ですわ。

百歩譲って、(一緒に行こうと言ってほしかった)とする。しかしオトワは実際このあと龍雲丸くんに「一緒にいこう」と言われたが「行けるわけないではないか」と返してくる。

(´A`)<「自分はいけるわけナイけどあんたは行け」?イラッとした。なんなのこいつ?ひょっとして「行かないよ。俺はここにいる」って言って欲しかった?そのために「行けば?」と言った?

そして最終的に行き着いた答えが「お母さんのため(母にたのまれたから)行くことにする」

(´A`)<なんだそれ?アタマおかしいんじゃね?

毎回毎回この主人公の行動・思考にはイラッとさせられる。大河じゃなきゃ見るのやめてる。脚本家は女かも。((´A`)<女でした)

○「愛するものを守るため、愛してないものを足げにする」ということ

戦場に留まる少女に「気持ちは嬉しいがここは危ない(から避難しなさい)」と優しく声をかける武将・近藤某。
近藤某は鶴くんの仇で憎まれ役だけど、思えばそもそも鶴くんが(井伊のために)近藤某にしたしうち(もっというと主人公が犯罪者を引き渡さなかったこと)がそもそもの因縁の発端だったんだよね。

井伊(おとは)のために他人を傷つけ蹴落とし行動してきた鶴くんが「かっこいい・素敵☆」で、自国民のため+もともと鶴くんにされた屈辱をかえすため行動した近藤某が「鬼畜・モミアゲ」っていうのは確かにおかしいやね。

○もっと上にいける人

ドラマオリジナルキャラクター・龍雲丸サマ。勘がはたらき頭がキレて優しい。さらにイケ面仕様のご尊顔が標準装備という恵まれっぷり。ドラマとはいえひどい。(このキャラ設定をつくった脚本はバカなのか?)、まあとにかく主人公にはもったいないナイス・ガイ。この架空のキャラクター、もしも徳川家康とか織田信長と出逢っていたらまるでドラマみたいに大活躍できただろうに、よりによって井伊直虎と出逢ってしまった。

こういう人、いるよね。「能力はありあまってるのになぜか不良グループでダラダラ毎日を過ごしてる」とか、「身長高くてイケメンなのに趣味が昆虫採集」とか。

それは家庭環境だったり本人の趣味だったりなんだろうけど、他人より秀でたものをなにももってない俺からみるとやっぱり「もったいないなあ」と思わずにはいられない。
学生時代、すごいバスケ上手い奴が、仲間のために先生殴って部活辞めちゃって。なんか龍雲丸みてたらそいつのこと思い出した。人がよすぎて?仲間をみすてられなかったんだろうし、もし仲間を見捨ててそのまま部活続けてても罪悪感にさいなまれるだろうし、運命っていたずらだよね。

○「私は不幸でいたいけどお母さんのために幸せになります。私はそんなつもりないけどお母さんのために嫌々幸せになります。」

「一緒に堺に行こう」という龍雲丸に、ああだから行けない、こうだから行けない、次々に行動をおこさない理由をもってきて口にする主人公。「自分は不幸じゃなきゃいけない」ってより、「不幸な自分に酔ってる・自分は今不幸だから過去にしたことはチャラになる」っていう臭いがしてきてイライラする。しまいには「お母さんのために行くことにした」って、人のせいにすることで自分を正当化。こういう女って実際けっこういる。(お母さんの「お母さんを理由にしていいからあんたは行動すべき」って方向にもっていった気持ちがよくわかる。実際、こういう奴に行動させるために第三者が「あんたは嫌だろうけど今回は俺のためにやってくれ」みたいに都合のいい言葉をめぐんでやることで、本人が「自分はやなんだけどあんたが言うからやる」って状況にさせてやることはままある。)


◎おまけパート


○三方ヶ原{→●三方ヶ原古戦場碑}{→●二代目根洗松}
//「三方ヶ原の戦い」は、のちの天下人・徳川家康の若き日の負け戦として有名//およそ2万の武田軍と1万の徳川軍がぶつかった{→●三方ヶ原古戦場碑}//武田信玄は三方ヶ原の北端、根洗松付近に本陣を置いたと伝わっている{→●二代目根洗松}//

○祝田(ほうだ)の坂
三方ヶ原の戦いの勝敗を決定づけたといわれる坂道(今でも山道)//この坂を下ったところで待ち構えていた武田軍に、徳川軍は叩きのめされた//総大将・家康も敗走を余儀なくされた//

○浜松八幡宮{→●雲立楠}
三方ヶ原の戦いからの敗走中に家康が駆け込んだといわれる神社//以前から武運長久を祈るため家康は何度もここに参拝していた//徳川家康がご神木の楠の洞穴に潜み武田軍の捜索を逃れたという伝説がある{→●雲立楠(くもたちのくす)}//以来、徳川家代々の祈願所として庇護を受けた//


◎覚へ書き

○歴史パート:
1572.三方ケ原の戦い(○武田vs徳川●in静岡県
//織田信長を討つために武田信玄が京都をめざし山梨県を出発//武田軍が徳川家康の領地・静岡県に侵攻、徳川家康は自分の城で武田信玄を迎え撃とうとするが武田軍は徳川家康を無視してそのまま通過//無視された・このまま見過ごしたらバックにいる織田信長野に怒られる・などなどで徳川軍あわてて武田軍を追いかける//しかしこれは武田軍の罠だった、城から出てくる徳川軍を臨戦態勢で待ち構えていた武田軍、徳川軍をコテンパンにする//武田軍の死傷者200に対し徳川軍の死者2000と多くの武将を失った

○ドラマパート:
1572.徳川家康所属・近藤某の領地となった井伊谷で新しい暮らしを始める。あるものは近藤某の家臣に、あるものは虎松に従い虎松の養子先に。主人公は還俗して百姓になって龍雲丸と同棲していた(龍雲丸は退屈な井伊のらしに少し寂しげ)//家臣C・方久が井伊家の女性をみそめ結婚(メモするに値しない内容なので詳細は割愛)//昔の仲間づてに龍雲丸に「大阪で事業をおこさないか」との誘いがくる。主人公、大いに悩むも龍雲丸とともに大阪へ行くことを決断(メモするに値しないしょうもないホームドラマだったのでその過程は割愛)//謎の商人(武田の間者)が”たかせ”に接触(たかせ→亀クン(井伊直親)の愛人の子として井伊家の一員となった少女)、井伊の現領主・近藤某を毒殺せよ・と指示。(→”たかせ”は武田のスパイだった)。結局”たかせ”は毒を盛るが戦時のドタバタで近藤某の口には入らず//武田軍が静岡県に侵攻。「武田につくか?徳川につくか?」(領主でもないのに)どうするべきか悩む主人公たち//徳川領に侵攻してきた武田軍に徳川軍が完敗(三方ヶ原の戦い)//武田軍が井伊領に来る前に百姓を避難させ、兵役を逃れさせることで武田軍との戦いに近藤某を不利にした主人公、追い詰められた近藤某に直談判し武田信玄に降伏するよううながす//近藤某、交戦は断念するも降伏は拒否、城を焼いて逃走//主人公、降伏こそしなかったものの自分の要求を呑んで交戦を控えた近藤某をかくまう//つづく//


◎おべんきょう

○じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)

×榊原康政(1548-1606)::武将・大名(徳川家康-徳川秀忠):上野国.館林藩.藩主・館林城(グンマー)
//松平家徳川家康の前身)の家臣の家臣・榊原某の次男(ようするに下っ端だった)//13歳・優秀な子だったのもあり徳川家康の小姓に//15歳・三河一向一揆で初陣、武功をたて徳川家康から「康」の字を賜る(○徳川家康vs浄土真宗本願寺派●in1563.愛知県)//19歳・元服、旗本先手役(結構な役職)に抜擢される//22歳・姉川の戦い、武功たてる(○織田・徳川連合vs浅井・浅倉連合●in1570.滋賀県)//25歳・三方ヶ原の戦い(○武田信玄vs徳川家康●in1572.静岡県)←イマココ//33歳・長篠の戦い(○織田徳川連合vs武田勝頼●in1575.愛知県)//34歳・高天神城の戦い(○徳川家康vs武田勝頼●in1581.静岡県)//35歳・本能寺の変徳川家康の伊賀越えに随行(○明智光秀vs織田信長●in1582.京都府)//37歳・小牧・長久手の戦い(△豊臣秀吉vs徳川家康△in1584.愛知県)//42歳・小田原征伐(○豊臣秀吉vs北条氏政●in1590.神奈川県)ー徳川家康の関東移封にともない関東総奉行という役を与えられると同時に上野国館林藩10万石(グンマーケン)を拝領、大名となる//53歳・関ヶ原の戦い徳川秀忠に同行し長野県ルートで進軍、敵(真田某)に足止めをくらい遅参する(○徳川家康vs石田三成●in1600.岐阜県)//59歳・病死
徳川四天王徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている

×佐久間信盛(1528-1582):武将(織田信秀-信長):尾張国.鳴海城城主(愛知県)
//若いころから愛知県の大名・織田信秀に仕え、のちに織田信長に仕える//織田信長と弟の家督争いでは一貫して信長を支持、調略工作から武力行使まで活躍、織田信長の家臣としての地位を固める//信長にしたがって各地を転戦、織田家のおもだった合戦にはすべて参戦//33歳・桶狭間の戦いにも参戦、戦後鳴海城を与えられた(○織田信長vs今川義元●in1560.静岡県)//のちも合戦・外交ともに大いに活躍//45歳・・三方ヶ原の戦い徳川家康の援軍として参戦するも圧倒的な武田軍の兵力の前にほとんど戦かわず退却(○武田信玄vs徳川家康●in1572.静岡県)//のちも多くの合戦に参戦//49歳・前任の戦死により、抗争中の本願寺勢力の対策指揮官となり織田家中最大規模の軍団を配下におくも積極的な攻勢をせず//53歳・働きが不十分だと織田信長に叱責され追放となり三重県まで落ち延びる//55歳・そのまま三重県で死去