大河ドラマ・武田信玄・第47回・感想
第47回 「三方ケ原の戦い」
○歴史がわからない
いよいよ武田軍の上洛とあって、織田や徳川の軍議シーンが多いのですが。俺は歴史に詳しくないので北条や今川の重臣はぜんぜん知らない。けど、織田や徳川
の重臣くらいなら知ってるつもりでいて。だから今回の織田や徳川の軍議シーンでは(誰が誰だろ?)なんて考えながら見た。
\(^0^)/<でもぜんぜんわからなかったよほほい
○主人公顔面蒼白
主人公がいつ倒れるのかヒヤヒヤしながら見ました(´;ω;`)痛々しくてみてらんないよっ!(´A`)<みるけどな
○フラッシュバック
ここ数年で大河ドラマを見るようになって、今、急に思い出したんだけど・・・
子供の頃、タイトルは忘れたけど、大河ドラマを見て、ものすごい衝撃を受けたんだ。チャチな合戦シーン・なのに大真面目に演技してるおっさん達。(なんだこりゃ?こんなのを大人は毎週楽しみにしてるんか?アホらし。)なんて思って。それ以来大河ドラマは見なかった。
けど、今俺はそんな大河ドラマを毎週観てる。チャンバラは相変わらずだしセットもあきらかにおもちゃだってわかる。なのになんで俺は毎週見てるんだろうと理由を考えてみた。
ズバリ、いつからかは知らんけど、大人になって寛容さや思慮を身につけ?演出なんかに対して脳内で補正できるようになったんじゃないかな、と。
例えば血のりの色も自分の中で血の色に補正しながら見れるようになったしセットやCGも(昔はこんな雰囲気だったのかもなあ)なんていう視点で見れるようになったし、役者さんの演技にもある程度感情移入してドラマを見ていられるようになったし。
あとは「たかがドラマ」っていう物事の見方がガキの頃はできなかったんだろうなあ。「僕は歴史上の出来事を知る一環として観てるだけなので役者さんの演技は関係ないです。」みたいな、子供の頃はそんな感じだったのだが、大人になるとそういう考え方に変化が・・・自分で言うのもなん だが、少年時代の俺よ、おまえは真面目ないい子だった。
(´A`)<そんだけ。
○ドラマではやらなかった「岩村城の戦い」
まずは織田信長の叔母は戦わず武田側に寝返ったらしい。
その土地に信玄と旧知の高僧がいて。信玄は「甲斐に来てほしい」と頼んだが拒否されたため信玄は部下3人に命じて高僧を殺害。それから半月しないうちにその3人が発狂したり落馬したりで死んだ。(しばらくして信玄も死んだ)らしい
まあどの合戦もちょっと調べればいろんな逸話伝承がでてくるんだろうけど、戦争はよくないっていうのは絶対だね。(でもそんな残酷な逸話を調べてドキドキしている自分がいる。当然ながら三方ケ原も二俣城もちょっと検索して見てみたがやっぱりいろんな伝承があってドキドキした)
○常識?
後の滅び行く武田家臣を徳川が保護するって流れ。この辺の戦いが縁となったんだなあ・なんて今更ながら感じた。
覚へ書き
あらすじ
歴史パート:1572.一言坂の戦い(劇中では「ちょっと行ってくる・的な会話のみ」・二俣城に迫る武田軍の様子をうかがおうとした徳川軍が武田軍に発見され逃げ帰る・的な感じ)/ニ俣城の戦い(武田軍の降伏勧告を拒否、1200人ほどで籠城→最終的に27000人ほどの武田軍に囲まれ水を絶たれ2ヶ月で降伏):/1572.美濃(岐阜)・岩村城の戦い(織田信長の叔母が武田側に寝返り武田軍が城を制圧するものちに武田信玄が病死・1575.城は織田に奪い返される)/1572.三方ケ原の戦い(籠城して待ち構える徳川軍を無視して武田軍通り過ぎる・怒った徳川家康が武田軍を追いかけていく・武田軍が待ち構えていて徳川軍はけちょんけちょんにされた)
ドラマパート:1572.武田信玄出陣。上洛戦開始/動揺する織田・徳川、嬉々とする将軍足利義昭/徳川支配下の遠江(静岡)・犬居城に入城。犬居城城主はすでに調略済みだった/遠江(静岡)・二俣城攻略にてこずる。夜襲、(山本勘助の息子のヘマで)レギュラー百姓・へいごが戦死するも二俣城はその後落城(夜襲で返りうちの描写のみでその後いきなり二俣城落としました・のナレーションだったのでなんかへいごどん気の毒・・)/徳川領のみならず織田領の岩村城まで落とされた織田信長・あせるやら怒るやら/武田軍、浜松城をスルー。籠城して戦おうと思ってたのに無視されたカタチになった徳川家康、怒って出陣するも返り討ちにあう→逃げ帰った家康、逃げ帰 った自分 を戒めるべく敗走した姿を書かせる(かの有名なの絵)/三方ケ原の戦いに大勝利、そのまま進軍する武田軍/つづく
おべんきょう
じんぶつ(○→メジャー:△→マイナー:×→無名)
1528?誕生。最初は織田信秀に仕えていたが幼少の織田信長の部下となる/25歳・信秀亡き後の家督継承問題でも一貫して信長を支持/信長の主だった戦闘すべてに参戦/46歳・三方ケ原の戦いで倍以上の敵を前に戦わずして退却←いまここ/その後も数々の合戦に参戦・けっこう失態も多かった/54歳・そんなこんなで今までの失敗を咎められ追放/56歳・死去
死に際に「自分は喉が悪いから自分が死んだら喉の神様になる。そしてここを訪れる人の喉を治してやる」といい、その土地に神社が建つ→2006.神社が取り壊され墓も野ざらしだったが、子孫が自治体に許可を取り墓を移動(泣かす)。母親は加藤清正の姉・とも。
三河松平家家臣の子として生まれる//25歳・三方ケ原の戦い・徳川軍はボロ負けするも本多の見事な戦いぶりは相手方の武田から称賛される←いまここ/35歳・本能寺の変・伊賀越え/43歳・上総国10万石の大名に/53歳・関ヶ原(もちろん東軍)/54歳・伊勢国10万石大名に/63歳・死去
家康のおじいさんの家臣の次男/35歳・一言坂の戦いで劣勢の中最後尾を努め味方を守った/38歳・長篠の戦い/47歳・小牧・長久手の戦い/63歳・関ヶ原(東軍)/64歳・駿河沼津2万石の大名に/77歳・死去・跡継ぎがいなかったため領地改易
×小杉左近(????-????):武将(武田家)詳細不明
.