おんな城主直虎・第3回・感想


第3回「おとわ危機一髪」

かんそう

○すごい茶番
 勝負に負けて「まだまだまだまだ相手しろ相手しろ相手しろ」、という「属国の人質の少女」、の厚かましい要求に、なんで一国の王子が負けるまでつきあってあげるの?その必要性、ないよね?
 スポ根展開がやりたかったのか知らんがこっちはそんなもん観たいわけじゃないから。そおいう方向性のドラマじゃない。史実なら仕方ないけどドラマなんだからもっと違うマシな内容にできるだろうに。(どうしてもあの流れでやりたかったのなら王子が挑戦を断れない理由をあらかじめつくっておくべき)

大河じゃなきゃテレビ消してたわ。

最後まで見たらそれなりによかったけど、俺が見たいのはこおいうドラマじゃない。こおいうのは朝ドラでやってくれ。このメルヘンチックなノリが続くようなら今作は見るのヤメル。

○和尚様

直虎→「和尚様が「答えは一つじゃない」っていうから違う答えにしたのに、もっと酷い事態になっちゃったじゃない!」

和尚様→「それはお前のだした答えが酷かったからでは?」

みたいな流れ、よかった。今回の和尚様は名言を量産してくれそう。(真田丸の坊主はどいつもこいつもナマグサかったので・笑)


覚へ書き

歴史パート:1544・井伊直満、直義自害の事後処理

ドラマパート:政略結婚の指示に従わなかった井伊家に今川家が激怒、今川家が主人公を人質に要求。主人公、今川本拠の駿府(静岡)へ/和尚様が人質提出の件を解消すべく説得工作(今川家参謀・太原雪斎と、今川家に嫁いでいる井伊家出身の娘・佐名に接触)するも交渉は失敗/井伊直平(ひい祖父)が「今回の一件はすべて小野の謀略だ、小野許すまじ」とのことで小野の嫡男(幼なじみB)を拉致/駿河入りした主人公、今川の嫡男と蹴鞠勝負を願い出る(勝ったら人質の件を免除してもらえるので)/主人公、何回負けてもくいさがり最後に勝ち、人質免除となる/しかし実際は「和尚様の説得工作+ひい祖父が謀反寸前」ということで予想以上に井伊家は追い込まれて いる状態と知った今川家臣が、これ以上井伊を刺激して他の勢力に行かれるより飼いならして戦争の駒に使ったほうが得策、ということを今川当主に進言したための措置だった/つづく


おべんきょう

じんぶつ

○佐名:(????-1562):井伊直平(←主人公のひい祖父)の娘・徳川家康の最初の妻の母:駿河国(静岡)
 井伊直平の娘→人質として今川家と縁組、(今川義元に喰われたのち)今川義元の養妹に→今川家有力家臣・関口親永の正室に→女子・瀬名を出産(この女子がのちに徳川家康正室となる)→1562.連座(娘婿の徳川家康が当主今川家を裏切った)で夫とともに自害

○瀬名→築山殿(つきやまどの????-1579):徳川家康の最初の妻:駿河国(静岡)
 今川家家臣・駿河持船城城主関口親永の子として生まれる(母親は↑の佐名)/1557.徳川家康正室となる/1559.嫡男出産/1560.桶狭間の戦い今川義元が討ち死に、この機に夫・徳川家康が今川を離反/1562.←徳川離反のせいで両親が自害させられ本人と息子は今川で人質となる/人質交換で徳川の元に戻るも家康の母親に嫌われ城外で暮らすことになる/1570.徳川家康が居城を替えたのでそれまで居城だった岡崎城に息子とともに入る/1579.息子の嫁が、悪口を書いた手紙を親に送り(なんと親は織田信長)、手紙を読んだ親が激怒、処刑される(嫁が男子を産まなかったので他の女をあてがったりしたらしい。)

太原雪斎:(たいげんせっさい・1496-1555)今川家家臣・僧侶・武将(軍師):駿河臨済寺(静岡)
 駿河国原城主の子として生まれる/10歳・仏門に入る/27歳・今川義元の教育係になる/41歳・今川家で起こった家督争いに勝利/60歳・死去(桶狭間の5年前)
いわゆる名軍師。幼い頃、不遇だった今川義元の教育係として出会い、導き、補佐する。武田・北条・今川の甲相駿三国同盟の締結にも尽力。

寿桂尼:(じゅけいに・????-1568)今川義元のママ。駿河国静岡県
 公家の子として生まれる/1505か1508・今川家当主に嫁ぐ/1526.夫(今川家当主)が死去、嫡男が若年のため代理で政務を執り行う/1536.嫡男と次男が急死(毒殺説)、家督争いの末3男の今川義元が勝利、その補佐となる/1560.桶狭間の戦い今川義元死去、嫡男氏真が家督を継ぎ寿桂尼はその補佐となるも今川家は衰退の一途を辿る/1568.3/14.死去。(武田軍によって駿府が陥落する前の死去だった)
 太原雪斎とともに今川義元を支えた。女性卑下の時代に国主の代理まで務めたそうとうに有能な人物だったらしい。

龍王丸→今川氏真(うじざね・1538-1615):武将・大名:駿河駿府城(静岡)
 今川義元の嫡男として生まれる/21歳前後で形だけ家督を継ぐ/23歳・実質のトップだった父・義元が討死、名実ともに今川家当主となる/のちに家臣が次々と離反、勢力が衰えていく/32歳・武田信玄徳川家康に攻められ北条氏康のもとに逃げる(←妻の実家)/34歳・北条氏康が死去、徳川家康のもとで暮らす(家康のもとで従軍もしている)/その後京都、江戸などで暮らし78歳で死去
和歌・蹴鞠・剣術にひいでていた・らしいが・・本当に剣術ひいでてたんか?没落したとはいえ名家の人間だから周りが遠慮しておだててただけじゃないのん?


おまけコーナー

駿府城公園(静岡県
 現存の遺構は今川のものではなく徳川がのちに築城した城の遺構だそうな。(遺構は堀と石垣のみ、門や櫓は戦後に復元されたもの)
 流れ//1399-今川一族の館→城があった//1569.武田信玄の「駿府攻め」で炎上・消失//のちに駿府領主となった徳川家康が城を建築、その後城主を替えながら最終的に隠居した徳川家康が居城とする//1607.火災で全焼も翌年再建//1616.家康没後も徳川系譜が城主だったが1631.にお家騒動的な事件が起こり領地・お城は幕府が管理することになり城主不在の城となる//1635.火災で大半焼失//1869.廃藩置県//1891.静岡市に払い下げられる//1896.取り壊される//1989.1996.門と櫓を復元

臨済寺(静岡県
 今川義元のパパが坊主になった義元のために善徳院という寺を建て太原雪斎という坊主を招き入れる//1536.家督を継いだ義元がこの寺を臨済寺とする//1568.武田信玄駿府攻めで大半が焼失//1582.信玄のあとに駿府領主となった徳川家康天皇の命令で復興・再建(家康も子供の頃の人質時代この寺で勉学に励んだ)以後、徳川の手厚い庇護をうける

○行きたいレベル:A-:行きたいレベルAの中では一番優先度は低い。静岡行く事があれば是非みてみたいとは思う。